生まれつき目の見えない人は主イエスの言葉に素直に従って、治療を受ける。しかし、この男は近所の人々が「その人はどこにいるのか」と質問をすると「知りません」と答えるのである。これが癒してくれた恩人に対する態度だろうか。この男は自分の救いに有頂天になっていて、癒してくれた人の方へは視点がいってない。さらに、主イエスに興味・関心がないばかりか、この男は多分この自分を癒してくれたイエスという人がどんな人であるのか理解できていないようだ。
このことは何を物語っているのだろうか。それは、この男が自分の罪を悔い改めて、イエスを主と信じたから癒されたのではないということ。逆の言い方をすると、この男は癒されたから、主イエスを信じるようになったというのでもない。信じたら癒される。癒されたから信じる。こういう信仰を御利益信仰というが、少なくとも、この男はそのような御利益信仰は持ち合わせていなかったようである。幸いなことに御利益信仰は持ち合わせていなかったけれども、主イエスが何者であるか分からなかった。いや、癒されたことに関心がいって、癒してくれた主イエスのほうに関心がいっていない。自分のことでいっぱい、自己中心。
では、この出来事は私たちに何を教えているのか。それは、主イエスの無償の愛の業、出来事が一方的に起こるということ。私たち、人間の側の努力、善い行い、また反省や悔い改め、徳を積むといったこととはまったく関係なしに、また罪を犯したからとか、とにかくまったく関係なしに、無条件にそのことは起こったということ。
そのことを主イエスは3節で宣言されている。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」これは驚くべき宣言である。弟子たちが前提としたような罪を犯した結果だという考えを否定する。そして新しい教えを示されるのである。ここで言われていることは原因ではなくて目的である。目的へと向かう神の意思である。この意思が表された行為が愛の業であり、赦しであり、共に重荷を負ってくださる神の働きである。このような業のしるしとして癒しがある。そして、そのことは、すでに神の起こされる一方的な出来事の内に私たちは在る、私たちは入れられているということを教えるものである。しかし、残念ながら私たち罪ある人間にはそのことがよく見えない、受け入れがたい、理解しがたいということも言い表しているのではないか。この癒された男と同じように。
私たちはまだ闇の中にいることを知らされる。闇の中にいるから、見えない。いや、見えると思っているが、光の中にいないから見えない。しかし、イエスは「私は世の光である」と言われる。世の光であるイエスの呼びかけに応ずるとき、初めて私たちは見えてくるのではないか。私たちがいまだ闇の中にいて、目が見えない時に、すでにイエスは私たちを呼びだして下さっている。
闇から光の中へ立たして下さるということ、見えない者から見える者へと変えて下さるということが、あの盲人のいやしのわざだったのである。癒しは「神の業が現れるため」だったのである。神の愛が示されるため、救いが知らされるためだったのである。そのことに気付かされた今、私たちはこの主イエスの愛の業に生きるようにとの招きに応えつつ歩むよう求められている。