「主が立てられる王」 申命記17章14-20節

 エジプトやバビロンなど古代世界において、王は常に神々の代理・化身と見なされ、絶対的な権力を持っていた。しかし聖書では、王は決して神的存在ではなく、民の一員であり、民の代表として神に聞き従うべき存在と見なされている。

 だから、王は「主が選ばれる者」でなければならない。そして同胞の一人を王とすべきであって、外国人を王としてはならない、と規定されている。これらのことは人間的な面だとか思いが先行してはならないということである。たといどんなに有能で知恵に優れていようとも、そういうことが王の基準ではないというのである。その基準はあくまで主の選びにあり、従って民はその人の人柄、手腕を尊ぶのではなく、その人を主が選ばれたことを尊ぶべきことが強調されている。主の選びは、人間の思いを越えている。リーダーは単なる力量や社会的地位、目先の都合といったものさしで選ぶことのないよう肝に銘じたいもの。

 では選ばれたリーダーは何を心がけるべきか。王として選ばれた者がしてはいけないことが三つ挙げられている。「自分のために」馬を増やさないこと、「自分のために」大勢の妻をめとらないこと、「自分のために」金銀を大量に蓄えないこと。このように王が自分のために権力を用いることが戒められている。

 王にとって大切なことは主の召しに対して謙遜であるということ。つい人は自分の立場を誇りやすい。それが神によって与えられたものであるとすれば、だれが一体それを誇ることができようか。誇るならば「主を誇れ」である。

 ひるがえって王のなすべきことはただ一つ。主の戒めに聞き従うこと。王は、まず「自分のために」律法を書き写さねばならない。これは「自分のために」馬、妻、金銀を増やす姿とまさに対照的。そして王は、その律法を常に読み返し、主を畏れることを学びつつ、その戒めに聞き従うことが勧められている。申命記は、王の権威より御言葉の権威の方が上だとする。私たちは御言葉に従うと言いながら、自分の考えを押し通すことがしばしばある。無意識の内に自分の都合のよいように御言葉を理解していることもあるだろう。気をつけたいもの。慎重さが求められる。御言葉が自分に何を語っているのかを真摯に受け止め、自己吟味することを大事にしたい。