「イエスは命のパン」 ヨハネによる福音書6章22-40節

パンの奇跡に加わった群衆は、その翌日、ティベリアスから来た船に乗り込んで、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。彼らがこれほどまでに熱心にイエスを捜し求めるのは何のためであるか。その訳を知る手がかりは彼らがイエスに尋ねた二つの質問に明らかにされている。

 第一は、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(28節)。彼らは救われるために何か余分に積み重ねるべきだと考えていた。自分の能力や功績に頼ってもう一つの善行を重ねることによって救いを見出そうと思っていたことがわかる。イエスは彼らに答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(29節)。イエスにおいて啓示されている神の意志と働きとに対して信じ従うことによってのみ、人はこの要請を満たすことになる。

 群衆の第二の質問は、「私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか」(30節)。彼らはイエスに対して資格を証明する奇跡を求める。モーセが荒れ野で天からのマナを降らせ、民に食べさせたような奇跡をイエスに要求する。この点が群衆の本心である。イエスは彼らの愚かなことを見抜いて、「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(32-33節)と答える。
 
 イエスは、群衆がパンの奇跡以上に彼らの欲望を充足するためにご自分を捜し求めたことを知って、彼らの要求の誤りを厳しく指摘して言われた。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」(26-27節)。

 今、ここでイエスは群衆に対して物質的な欲望を充足するためでなく、「永遠の命に至る食べ物」であるイエスご自身への信仰を要求している。このみ言葉は、今日の我々に対する勧めとして受け取るべきである。人間のパンへの欲求は生の根源的な欲求である。我々はあくことなき物質への欲望により、思い煩いに束縛されて安らぎを得ない。それは我々がまことのパンを食べていないからではないか。イエスは、そのようにいつも皮相的な欲求不満に包まれている人間に対して語りかける。「わたしが命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)。