「平和を実現する人々」に関する「至福の教え」は、イエスにより「敵を愛する教え」(43-47節)において展開される。この平和の強調は、新約聖書の共通のモティーフとなっている。「平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」(ローマ14:19)、「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい」(ヘブライ12:14)など、と勧められている。
武力による平和は、武力によって崩壊する、とも書かれている。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)。人類史がそれを立証している。民族主義的・メシア運動は、宗教的熱狂主義者の扇動を生む。それが、政治的指導者と手を結ぶ。暴力的戦争が「聖戦」と唱えられる構造である。現代も同じことが繰り返し生起している。マスメディアはあたかも宗教戦争が勃発したように報道する。為政者が民衆の宗教感情を利用しているだけのことをその類の人々は隠蔽する手助けをしている。
戦後70年、平和が主張され続けてきた。しかし、平和を唱える者が争いの構造を生み出してきた。聖書はイエス・キリストだけが「平和の君」であり、「和解の支点」だと語る。イエス・キリストから離れて平和を唱える者は、自らの民族・国家に都合のいい平和を唱えるだけのことであると。ヒトの中からは闘争、抗争、軋轢、憎悪、嫉妬しか生じない。ヒトの内側に神の働く場を用意する者、すなわち、「成熟した人間」だけが、神の働きにおいて、まことの平和を実現し得るのである、語る。ヒトは平和をつくり出さない。すなわち、生来の人間は、争いと嫉みと悲惨を生み出す。現代の「楽観的ヒューマニズム」の立場の者は、この点を見過ごしている。「成熟した人間」は真の平和をもたらす。「成熟した人間」は神のみを神とし、被造物を、すなわち国家元首や国家権力者や為政者など相対的なものを、決して絶対化しないからである。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)。成熟した人は、愛することが出来るといわれる。愛することが出来る人は温かい人間関係をつくることが出来る人でもある。愛する時、愛する側の動機づけで愛し始める。しかし愛は相手あってのこと、愛した結果は、必ずしも願ったように終わらないのが愛には付きもの。愛は自分の手の内から始まっても、愛した結果は自分の手の内から離れる。時には、裏切られたり、素知らぬ顔をされたり、冷たい仕打ちが返ってくることもあるだろう。愛した結果、思いがけなく傷つくこともある。それを恐れては愛することはできない。「敵を愛する」、「迫害する者のために祈る」ためには、傷つくことを恐れずに結果を受容する懐の深い態度が必要。それは我慢するとは違う。受け入れる態度である。「愛には恐れがない」(第一ヨハネ4:18)と聖書にある。神は敵であった、この私を愛してくださったことがその前提にあるからである。ここに立つことから始まる。