「罪を引き受けられるイエス」 ヨハネによる福音書8章1-11節

           
 律法は呪いを説き、裁きを説くものであった。しかし、主イエスは赦しを説かれた。そのことは律法学者やファリサイ派の人々には気に入らない。そこでイエスが、エルサレム神殿の境内で民衆に教えておられたとき、律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕えられた女を連れて来て、まるで見せしめのように「真ん中に立たせ」た(8:3)。そして、「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(8:5)とイエスを試した。試すための試し。女を律法によって裁くためではなく、「イエスを試して、訴える口実を得るために」(8:6)であって、一人の女の命を利用しているだけ。女はいい迷惑。それだけでなく、彼らが重んじている律法をも不当に利用していることになる。愛のひとかけらもなく、神への畏れもない。自分の義を立てるだけ。

 さて、彼らは、罪を犯している者に対して、罪の赦しをどのようにイエスが言われるか、興味津々として見守っていた。ここで主イエスが、もし赦しなさいと言えば律法を破ることになり、打ち殺せ(レビ20:10、申命記22:22-23)と言われると、イエスが赦しを説いてこられたことと矛盾する。そのようにして、主イエスを窮地に陥れようとした。それに対して、イエスは静かに、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われた。自分はこの女を罰することが出来ると自信のある人はやりなさい、しかし、自分自身を深く振り返ってみると、私たちはお互いにそういうことはできないのではないか、ということである。自分も同じようなことをしていることに気づくと、人を裁くことはできなくなる。このみ言葉は、人々が抱えている罪を明らかにする。気付かせる。

 イエスも「わたしもあなたを罰しない」と言われた。これは、イエスが自分を振り返り、自分も人を裁くほど、清廉潔白ではない、すねに傷を持つ身だから、この女を罰しないと言われたのではない。そうではなく、その罪を主イエスが引き受けられたのである。十字架においてイエスが引き受けてくださることによって、はじめてその人の罪はなくなるのである。

 イエスは十字架のゆえに、非常に寛容な方であり、どんな罪も赦される。しかし、その寛容には一つの願いがある。その願いとは「もう罪を犯してはならない」(8:11)ということ。このみ言葉は、今までの罪は私が引き受けた。そのことによって、罪に座り込まざるを得なかった人をそこから解放される。だから、二度と罪に定められない生き方の中を歩ませる言葉となる。罪が赦されているのだから、今後はたがいにイエスに対して真実に、そして罪を犯さないように生きていこうではないか、という励まし。そこから他者に対する愛が始まる。