私たちは今朝、神によって礼拝に呼び集められた。病気を抱えながらこの場におられる方もいると思う。私たちの生は、病を抱えた生であるとも言える。また死は誰も避けられず、私たちの生は死を含んだ生である。病と関係なく、また死を除外して生を生きているのではない。病を持ち、死を含んだ生を生きているのである。
「私の人生はこれでよかったのか」、「まだ気掛かりのことが残っているのに」などと、「私の死」は問いかけてくる。もし死がすべての終わりであるなら、これらの問いをそのままにして、人生を終わらねばならない。そのような死は、私にとって死にたくない死であり、死にたくない死を前にして生きることは辛いことである。
しかし主イエスは言われる。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また裁かれることなく、死から命へと移っている」と。ルターは「洗礼は水によって罪人であるわたしが溺れ死ぬのであり、そのわたしをキリストが水から引き上げて生き返らせてくださるのである」と言っている。死から命へ移っているとは、そのような出来事が、洗礼において私に起こっていることを知らせているのである。「私の死」はその時「キリストの命」に変えられており、もはや「私の死」が残す問いは、その時、キリストに受け取られているのである。それが十字架の贖いの死であり、そこに神の愛が示される。
神がその「世」を愛する「神の愛」には目的がある。それは「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」。「永遠の命」は、ただ最後の最後に人間に与えられるというのではない。「永遠の命」はもう既に始まっている。つまり「独り子を信じる者が一人も滅びないで」と言われているように、「永遠の命」は「独り子を信じる」ことと結びついている。だから今「独り子」を信じて生きるならば、ある意味で「永遠の命」を持っている。もちろん完全に持っているわけではない。しかしちょうど「見本」のように、あるいは「サンプル」のように、あるいは「先取り」として、いずれにせよ、「永遠の命」は今この地上で始まっている。すでに救われている人は、これを持っている。それに与っているということでもある。すでに救われている人、独り子を信じている人、キリストのものとされた人はこれをある意味で持っている。「独り子を信じている」ことによって、「神の愛」を受け取り、受け入れている人は、すでに永遠の命にあずかり始めているわけである。
それは「独り子」を信じることによる。しかし誰が信じさせてくれるのだろうか。だれが私たちをクリスチャンにするのだろう。だれが永遠の命を与えてくれるのだろうか。それは神による恵み。恵みによる賜物。信じるというのは、ただ「ありがとう」と言って受け取ること。神が「どうぞ」と言って恵みによって与えてくれる賜物を拒否せず、「ありがとう」と言って受け取ること。「独り子をありがとう」と言う。それがアーメンである。「アーメン」と言う人はすでに「永遠の命」に触れて、「ハレルヤ」と歌い始めている。