主イエスはその地上のお働きの中で多くの病人を癒された。今日のみ言葉の中にも38年間病気であった人が癒されたと記されている。主イエスが癒しをなさったのには、どういう意味が込められていたのだろうか。
エルサレムの「羊の門」の傍らに「ベトザタ」という名の池があった。「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」(3節)と記されている。その人々の中に38年も病気で苦しんでいた人がいた。その人自身の言葉によると、そんなに長くそこにいたのは「水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいない」からである。
38年間病気であった人は水に入ることができなかった。しかし、彼は池の水ではなく、主イエスの出会いの中で癒されている。「イエスは、その人が横たわっているのを見た」(6節)とある。そして「もう長い間病気であるのを知って」と記されている。そして「『良くなりたいか』と言われた」というのである。主イエスはこの人を「見て」「知って」「言われました」。向こうからの出会いがあり、語りかけられた。そこから癒しが起こった。水ではなかった。
病人自身は健康になることをもうすっかり諦めていたかもしれない。「わたしを池の中に入れてくれる人がいない」のである。それはこの人自身の病気の問題だけでなく、この人の周囲、世の中の問題でもある。周囲の人の無関心や愛の限界を表しているだろう。私たちも他者に対し、あるいは家族の中でも、配慮することに疲れ、諦めを抱くことがないわけではない。人間の病はその人個人の問題というだけでなく、人間関係の表現でもある。個人が健やかになることと、その人の人間関係が直されることとは結びついている。個人の救いと社会の救いを完全に切り離すことはできない。しかし周囲の無関心の中にあっても、主イエスの眼差しが向けられ、主の配慮がこの人を支え、主の語りかけがこの人を立ち上がらせた。
私たちは今日、礼拝に呼び集められた。病気を抱えながら、この場におられる方もいると思う。私たちの生は、病を抱えた生でもある。また死は避けがたいのであって、私たちの生は死を含んだ生である。病と関係なく、また死を除外して生を生きているのではない。病を持ち、死を含んだ生を生きている。しかしその生の中で、私たちは、病と死を抱えながら、主イエス・キリストとの交わりに生かされている。主イエスとの交わりに生かされていることで、病と死はもはやどうにもならない恐怖の原因ではなくなっている。主が共にいてくださることで私たちの病も死も変えられた。それが癒されているということはないだろうか。新しい一週間も、主イエスを私たちの主と告白して、主イエスとの交わりに生かされ続けたいと思う。