主イエスは、エルサレムの神殿で犠牲にささげる動物を売る者、両替をする者を鞭打ち、台をひっくり返して追い出された。動物犠牲は定められた神殿儀式であり、捧げる貨幣はユダヤ貨幣に決められていて、外国貨幣は禁じられていた。これに便乗して利をむさぼる商売が成り立っていたのである。激しいほどの行為によって主イエスが求められたのは、神殿とは何かということ。
主イエスが「父の家を商売の家とするな」と言われ、ヨハネが「イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである」(2:21)と解説を加えている。ここから伺えることは、主イエスはご自身の体としての神殿、つまり教会の本来のあり方を損ねるようなことがあってはならないと言われているのである。私たちは、しばしば教会の外側に表れた見かけの美しさや、粗末さ、教会が大きい小さい、時には人々が醸し出す雰囲気などに囚われがち。改めて、宮清めの出来事が、教会はキリストの体であるとの認識を土台としていることを知るなら、キリストは教会から何を排除しようとされるのかを見極めなければならないだろう。
主イエスが神殿の境内で商売する者たちを縄の鞭をふるって追い出しておられるのを見て、17節「弟子たちは、『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」と書かれている。これは詩編69:10から引用。「神に仕える熱心さがわたしを滅ぼす」という意味。この詩編のみ言葉は、新しい意味を持って、弟子たちに響き、思い出されたのだろう。
ご自身の父なる神が礼拝される場所で商売する者たちへの怒りは、主の熱心から生まれている。それが結局は主イエスご自身を食い尽くすことになる。主の十字架を招いた。
真の神殿はそこでは十字架と復活の私の体だと宣言なさるお方がいらっしゃる。ゆえに「霊と真理をもって」礼拝することだけが求められる。旧約の中に、イエス・キリストの言葉の中に、そのことをはっきりと語っている言葉をいくつも見出すことができる。そのような対応を求める宗教は、「私が神のために何をしたか」を問う宗教ではない。そうではなく、「神が私のために何をしてくださったか」、この一点に尽きる。恵みの宗教である。私のために、そして人類のために、十字架にかかってくださった救い主。その救い主を死から甦らされた父なる神、「三日で建て直す」神殿。そのことだけが説かれる。そのような無償の恵みをいただいた者の信仰的な応答のありよう、それが「霊と真理をもって」する礼拝である。そのための場はキリストご自身である。キリストの十字架と復活の希望に生きる礼拝をささげよう。