五旬節の日、「みんなの者が一緒に集まって」いた。炭火もばらばらではうまく燃えない。「呼び集められ」、心を一つにし、共に祈る時、主は私たちの信仰を燃え立たせてくださる。弟子たちは「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(1:5)という主の約束の言葉を信じ、この日も集まって、一緒に祈っていた。
この時、突然風のような音があたりに響き渡り、「舌のようなものが、炎のように分かれて現れ」たとある。これは、聖霊が彼らに臨んだ様子を具象的に描き出した表現であろう。「風」は、聖霊の自由な働きを示し、「炎」はその力を表す。灯油はそのままでは単なる液体だが、火がつくと勢いよく燃え始める。人間もそのままでは弱く心もとない存在だが、ひとたび「聖霊の炎」に燃やされると、エネルギーが与えられ、大きく用いられる。この「霊」は、十把一からげの集団ではなく、「一人ひとりの上」に注がれた。真の「霊」は人それぞれの特質、個性を大事にし、豊かに用いられる。こうして、復活のイエスが約束された聖霊は、主の約束を心から信じ、熱心に待つ人たちに与えられた。このように教会のいっさいのわざは「待つ」ということから始まる。寝て待つのではない。祈りつつ、信頼して待つ。その信仰がなければ待てない。
聖霊は神の力そのものであり、「霊」として私たちの中に働く神ご自身であり、私たちを内側から動かす力として働く。イエスは、十字架につけられる前夜、弟子たちに語られた別れの説教(ヨハネ14-16章)において、地上から去られるご自分の代わりに、「助け主、慰め主」としての「聖霊」を遣わすことを約束された。その「聖霊」がこの時、この場に下ったのである。
「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こって」とある。聖霊が下るのは突然であり、地上からではなく天からである。このことが示していることは、聖霊の働きは、神ご自身の働きであって、人間的な努力や考えで起こることではないということ。だから、そこに当然、私たち人間の側からすると、戸惑いや驚きが起こるということである。
ルターは次のように書いている。「私が来たのは、平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためであると主が言われるように十字架の福音が説かれると世の中が騒然となる。もし私たちがキリストの福音を聞いて疑ったり、驚いたりするようなことがあれば、それこそキリストがそこで働いていてくださる証しである。もし私たちがキリストの福音を聞いて、その通りだと思い、何の疑念も残さないなら、私の知恵は働いているかもしれないが、キリストは働いておいでにならない」(『ガラテヤ大講解』聖文舎)。神の起こされる出来事に人間が驚くのは当然であって、驚きがないなら福音ではないということである。その出来事は我が身にも起こる。天からの力を受けよ。