ヨハネ福音書のテーマは「永遠の命」と言われている。今を生きる私たちの中に、イエスにある永遠の命が宿っているということ。特に、死をもって終わる私たちの命の中に、永遠につながる命のあることをヨハネは述べる。ここで扱われる「パン」も、それが日用の糧であると共に、永遠の命を示す「命のパン」であることを表している。
今朝の聖書箇所は、単なる奇跡物語として扱われがちだが、少し注意して読んでみると、より深い意味を見出すことができる。私たちの手の中にあるもの、それはどんなに小さく、わずかではあっても、イエスの前に差し出されイエスによって祝福され、主のご用のために用いられる時、一つのものが十倍にも百倍にもなることを、この話は語っている。それは一粒のからし種が、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことにも、たとえられているとおりである。逆に一つのものを出し惜しむことによって、私たちは神に対して多くのものを失うのである。
アンデレが大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年を連れてくる。アンデレは単純に、群衆のためにイエスが食べ物を探していると思ったのだろう。しかしこの行為は、大勢の人の空腹を満たすのに何の役にも立たないことは明らかである。しかし、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱え、人々にパンを分け与えられた。この姿は主の晩餐と重なる
たとえ僅かなものでも、喜んで主の前に差し出しているかどうかが、私たちに問われている。神は人間の信仰を捜しておられる。そして、その信仰がどれほど小さく貧しいものであっても、それを足場として大きな御業を成し遂げられるのである。分け与えられたパンは十字架で裂かれたイエスの身体を思わせる。イエスは、アンデレがパンと魚を持ってくるという、ささやかな行為さえも用いて、群衆を満腹させつつ、そのことを通して、人々のために裂かれた本当の命のパンを指し示したのである。「わたしが命のパンである」(6:35)。
考えてみると、私たちが一緒に分け合って食べている限りは、きわめてわずかなものであっても満ち足りたと思う。分かち合う喜びも感じる。ところが誰かが独り占めにしたり、自分のためだけに取っておこうとすると、そこから飢えや争いが始まる。単なる空腹だけではなく、精神的な飢餓も生じてくる。五千人を五つのパンと二匹の魚で養ったという奇跡物語にはそんな意味もあるように思われる。