イスラエルは奴隷であったエジプトの地から脱出し、約束の地を目指して荒れ野を40年間旅した。それは主に従うための訓練の時だった。しかし約束の地に入り、豊かになるとイスラエルは主の恵みを忘れ去っていった。そこで申命記は、モーセの口を通して「荒れ野の旅という原点を忘れるな。荒れ野で主が教えてくださったことを忘れるな」と繰り返し語るのである(2節)。
主はイスラエルの民が荒野の旅に出てすぐ、パンが食べたいと言って泣き言を言った時、彼らにマナという食べ物をお与えになった。マナは毎朝、露のように大地に降った。朝起きると一日分のマナだけ拾うことができる。しかし余分に拾っても次の日には腐ってしまったという(出エジプト16章)。それは、「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるため」だった。蓄えがきくパンがあれば、神を信じなくても生きていける。しかし主は、パンでなくマナを与えることによって、明日の分までがむしゃらに蓄えようとする生き方を戒められたのである。このようなマナによる生活は、信仰生活そのものだと言える。民は、明日マナを用意していてくださる主の愛と恵みに信頼して床につく。そして朝起きては、そのマナ、すなわち主の励ましと戒めと愛のこめられた食事を味わって一日一日を生きたのである。それは主による訓練だった。
ただしイスラエルの民に言わせれば、こんな大変な旅が訓練だなんてかなわない、主は我々を苦しめようとしているだけじゃないか、というところだったかもしれない。しかし、40年の旅の間、着物はすり切れず、足もはれなかったではないか、必要なものは満たされていたではないか、とモーセは民に語りかける。大変な旅だったに違いない、しかしその大変な中を、主が支えてくださったのではないか、とモーセは静かに問いかけている。この苦しい訓練の間、主は涼しい所から高みの見物をしておられたのではなく、マナを降らせ、服を保たせ、足取りを支えてくださったのである。主は昼は雲の柱、夜は火の柱をもって民を照らし先導し、民を離れることはなかった(出エジプト13:22)。このような主の愛を受けた旅路こそ、イスラエルが決して忘れてはならない原点なのである。
この訓練は、苦しいものだったが、しかしそれは民を幸いに導こうとするものだった(16節)。私たちに対する主の愛は、何も試練に遭わせないことではない。それなら私たちは神のロボットだろう。しかし主は私たちを人格として尊び、私たちがぶつかる課題を取り去るのでなく、この課題に直面する私たちに寄り添い、勇気を与え、励まし、支えてくださるのである。こうして与えられた出来事に主と共に取り組んでいく時、その出来事を通してしか得られない恵みを受け取ることができる。苦しい日々を主に信頼して歩む時、その経験は他の何ものによっても得られない宝となるのである。