箴言を通読して

水曜日午前の祈祷会で「箴言」を読み始めたのが2014年9月24日。今週の祈祷会で最後の31章となるので、約7か月かかったことになる。箴言をこれだけ丁寧に読み、学んだのは初めてであったが、楽しかった。箴言は単刀直入に語る。「寸鉄人を刺す」である。なるほどと思わず膝を打つこともあり、あまりの率直さに笑うこともあった。

 箴言の「箴」という字は細いことを意味し、はりの用をする細い竹、また、針に通じるとある。「箴石」という言葉もあって、昔、石で針を造り、患部を刺して病気を治したことから転じて、「箴」という字は、「いましめ、いさめ」をも意味することとなる。そして、深い経験を踏まえ、簡潔に表現した戒めの言葉が「箴言」と言われるようになった。

 箴言とは、一般に用いられる短く含蓄のある格言のこと。聖書で箴言と訳されたヘブライ語には、「比喩」とか「たとえ」といった意味がある。それは一般に真実と認められている意見、あるいは判断を簡潔かつ容易に記憶される形式に要約したものである。

 知識と違って知恵は、生活の知恵ともいうように、実生活のしるべとなり、人が生きるうえでの方向づけをしてくれるものである。知恵は豊かな人生経験、失敗や敗北を経て得られるものである。それは、人間が生きるうえでの価値観、生き方のノウハウでもある。

 では、知恵の本体とは何か。それは、人間関係をより円滑に処理していくための「呼吸」のようなもの。それは社会の中で自分を生かす「気働き」ともいえる。その気働きの知恵を与えてくれるものは、時代を経て生き残っている箴言、名言名句である。

 「智慧と戒めをもつは沙門なり。智慧あれば戒めあり。戒め深ければ、智慧もまた深し」とは釈尊(ブッタ)の言葉。沙門とは出家して仏門に入り、道を修める人のこと。「戒め深ければ、智慧もまた深し」とは言い得て妙。ここに箴言と知恵の関係がある。箴言を読んでみませんか。