会話と対話

平和に暮らすには「敵を作らないこと」、次に互いの理解と信頼を深め、仲良しになることだ。これが急がば回れで、一番の方策である。そのためには常に「対話」が求められるだろう。

 劇作家平田オリザさんは、著書『わかりあえないことから――コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書)の中で、会話と対話の違いを次のように説明している。会話とは同じような環境の中に生活する、似たような意見を持つ者同士によるもの。対話は全く異なる出自を持ち、考え方も立場もさまざまに異なる者同士の間で交わされるものと定義し、日本社会には対話がないと言い切っている。

 その鋭い指摘に私も同感せざるを得ない。日本社会はいつも「うちとそと」を意識し、使い分けるので、もともと対話が育ちにくい。内輪だけの話(会話、おしゃべり)は盛り上がるが、対話となると紋切り型の愛想のないものとなる。

 対話で大切なのは、どのようにして相手に言葉を届けるか、自分の思いを伝えるかである。言葉を相手に届ける努力。反対は、語り手や書き手が、メッセージの受け手のことを考えてない、相手が見えてない、言葉を届けようとしていない、ということになる。

 対話、言葉を届けるには、相手にすぐレッテルを貼り付けて、「彼は○○だから」と決めつけてしまわないこと。「イスラム国」はテロ集団とレッテルを貼ると、もうその先の対話は成り立たないのを見てもよく分かるだろう(「イスラム国」を容認しているのではない)。対話をするには、私たちはレッテル貼りから脱却しなければならない。

 すぐレッテル貼りをする人は「精神のこわばっている」人だそうだ(精神科医野田正彰氏)。そのような人には人間観の貧しさ、硬直性、思考停止を感じる。精神がこわばっていれば、自分と異なる見解を持つ人、出自の違う人、宗教的背景が異なる人との間に対話が生まれる可能性は極めて低い。対話の回路を自ら断ってしまうことになるからである。

 以上、自戒と吟味を込めて書いた。