「何事も愛をもって」 コリントの信徒への手紙16章1~14節

16章は現実の私たちの教会生活にはとても身近な、大切なことが記されている。共に生きることに失敗しているように見えるコリントの教会の人々に対して、パウロが具体的な事柄を語り告げることによって、共に生きる教会の姿を指し示している。
 
 はじめにエルサレム教会への献金について語っている。ここにパウロの人柄が示されている。エルサレム教会は主イエスの直弟子によって建てられ、ユダヤ人にたちに旧約で預言された救い主はあのナザレのイエスだと伝道していた。それに対して、パウロたちの異邦人教会は、ユダヤ人の伝統的な考えからすれば、神に必ずしも祝福されたとは言えない人々の集いであり、パウロのように主の直弟子ではないと思われていた者が伝道をしていた。そして、両者の関係は、必ずしも信頼があり、あたたかいとは言えなかったのである。
 
 しかしパウロは、ここでも神の御名が崇められねばならないとの一点から、エルサレム教会との一致、交わりを常に配慮した。すなわちエルサレム教会から霊的賜物を与えられたのに対して、異邦人教会はこの世的なものをもって感謝を表わしていく。このような行為を通して教会が一つとなるのを願ったのである。
 
 エペソでこの手紙は書かれたが、これからの伝道計画も語られている。「……五旬祭まではエフェソに滞在します。わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです」(8-9節)と書かれている。開かれた門と反対者。矛盾であり、対立しているが、これが現実である。反対者が多い。それは、ちょうど影のように、光に近づくと影も濃くなり、光から遠ざかると影も薄くなるように、私たちが神に近づき、祝福を受けるようになると、それに反対したり敵対したりする力が強くなりだすのである。私たちの世界には光と闇の両面がある。これが外部からだけではなしに、自分の内面にも起こってくるのである。心身とも疲れ果てることも少なくない。信仰生活で、神の言葉と約束を信じていけば、それに比例してサタンの力も強くなっていくことは覚悟しなければならない。懸命になればなるほどそうである。逃げ出したくなる時すらある。しかし敵対する者が多いからほどほどにと言っていたら、神の有力な働きの門に入って行くことはできないのである。
 
 「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい」(13-14節)。ここで、4つの勧めを短く語っている。説明する余地もないほどだが、特に、最後の「愛をもって」することが重要である。コリントの教会の内紛は、その根底に愛の欠如があったことはこれまでのパウロの言葉から明らかである。「最高の道」として「愛を追い求めなさい」(14:1)と勧めてきた。愛がなければすべては無益だからである。パウロはコリントの教会に、主がどんな課題を与えられるか、目を開いて、力強く信仰の愛の原則に従って解決せよと言っている。愛と祈りによって、教会は生きる。