パウロは、礼拝でそれぞれが与えられた霊的な賜物をもって奉仕するよう求めた。霊の賜物は多様に多くの人に与えられており、その恵みを共に分かち合い、励まし合い、学び合うことが教会を造り上げるために重要なのである。
霊的賜物の多様性(12:8-10)とそれを生かす最高の道としての愛(13章)について語ったあと、パウロは特に預言する賜物を熱心に求めなさいと勧める(1節)。コリントの教会では預言よりも異言の方が勝ると評価され、異言を語れる人こそ霊的な人だとみなされていたようである。ところがパウロはその反対に、異言よりも預言の方が優っていると言うのである。なぜだろうか。
「預言する者は教会を造り上げます」(4節)。これが決め手。14章を注意深く読んでみると、「造り上げる」という語が繰り返し出てくる。キリストの体である教会(12:27)を造り上げるためにこそ、多様な霊の賜物が教会に与えられているのである。造り上げる働きは、「励まし、慰め」る(3節)ことと結びついている。そのためには「啓示か知識か預言か教えかによって」(6節)、「明確な言葉」(9節)によってなされなければならない。そうでなければ「何の役に立つでしょう」(6節)。
パウロは例として、笛や竪琴、戦いの準備のためのラッパ、世にあるいろいろな種類の言葉(7節-10節)をあげて、それらがはっきりとした意味を持たなければ無用であると言っている。今日の教会では、特に私たちプロテスタント教会では、礼拝の中で説教の重要性を強調してきた。説教は異言と預言との分類からすれば預言の方に近いと思うが、それは説教が意味のある明確な言葉で福音を語るからである。それが教会を造り上げるからである。
しかし、今日の私たちの教会で説教が霊の賜物として受け止められているだろうか。説教が退屈だ、くどい、暗い、迫力がない、長すぎる、励ましや勇気を与えてくれない……などと、よく言ってないだろうか。コリントの教会が霊の働きによって混乱を起こすほど活発であったのに対して、今日の私たちの教会は霊の枯渇状態に近いと言われないだろうか。
では、どうすればいいのだろうか。パウロは繰り返し、「求めなさい」(1,12節)と勧めている。霊の賜物が過剰でさえあるように思われるコリントの教会でさえそう勧められているのだから、私たちの場合はなおさらではないだろうか。私たち日本人は知識を求めたがると言われている。そのような私たちは、「あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい」(12節)という勧めを新しく聞き直すことが必要であろう。