「神にある一致」 民数記32章1~19節

荒れ野での40年の歳月が流れる中で、イスラエルの民がいよいよ約束の地カナンに入る時を迎えた。この時に至って、ルベンとガドの部族が、モーセたちに、ヨルダン川を渡ることなく、ヤゼルとギレアドの地を所有地としたいと申し出た。ルベンとガドの部族は、多数の家畜を所有し、家畜を飼うのに適したヨルダン川の東側に住むことを希望したのである。
 
 この申し出を聞いたモーセは、過去の苦い思い出、約束の地カナンを偵察に行った時、カナン人を恐れ、神の臨在と神の約束に信頼せず、エジプトに戻ることを求め反抗した出来事を思い出す(民数記13-14章)。神はイスラエルの背きに怒り、約束の地を背にして、再び荒れ野へと向かわせたのだった。
 
 もし、ルベンとガドの部族が、家畜のために良い地を所有したいと願い、カナンに入ることを拒むならば、イスラエルの民の一致は乱れていく。他の部族は意気消沈し、部族ごとの要求が噴出し、イスラエル共同体の約束は損なわれていく。荒れ野で民が学んできたことは、神の御心に信頼し、神の立てられた秩序を尊び、各自の役割を担っていくことだった。旧世代の罪に対する神の裁きという悲しくも厳しい現実を歴史として学んだはずの新世代の民は、その歴史の教訓を生きる使命がある。

 再び同じ過ちを繰り返すことはできない。モーセは、厳しく問いただした。ルベンとガド族の人々は、モーセの怒りに満ちた懸念に答えて、一つの提案を行った。それは、ルベンとガド族の嗣業の土地として、まず、ヨルダン川の東側に子どもたちのための城壁で囲まれた町を作り、そこに住まわせる。そしてイスラエルの他の部族と共に戦うためにヨルダン川を渡っていくというもの。すべてのイスラエルの民がヨルダン川の西側で嗣業の土地を受け継ぐまで家に帰ることはないという決意が込められていた。

 モーセは、その提案を受け入れた。モーセが恐れたのは、部族ごとのエゴイズムが噴出し、共同体の一致が乱れ、神との契約が民の背きと罪のゆえに破壊されていくことにあった。これまで、神は罪深い民を慈しみ、民の間に住まうことを決心され、神がイスラエルの民の神となり、イスラエルを神の民としてくださった。イスラエルの民は、神の共同体として荒れ野で整えられてきたが、神の民とされることは、恵みであると同時に、責任を伴うものである。ルベンとガド族はその責任を果たすことを約束する。自分たちだけの嗣業を得ればよいというのではなく、神の民の共同体全体が、神の嗣業を受けるところに意味がある。神の民の共同体としての秩序、役割、責任を尊び、共同体として共に約束に与かることが大切なのである。
 
 私たちは信仰生活において、ともすると自分のことしか考えない過ちに陥りやすい。教会生活を守るということは私の自由だと思いやすい。確かに私たちは他人のために教会生活をしているのではない。すべてそれは自分が神への応答として行っているのである。しかし、その応答が隣人に向かわなければ不十分。願わくば、友を滅ぼす者ではなく、友を生かす存在となりたいものである。