「アドベント・新しい備え」  ルカによる福音書1章5-25節

アドベントとは、ラテン語のアド「~に向かって」、ベント「来るべきもの」から来ている。「来るべきもの」とは「救い主」だから、「救い主に向かって」待つ日々ということになる。「待つ」とは漫然と無為に時間を過ごすことではなく、キリストに向かって「待つ」信仰の姿勢を示すものである。
 イエス・キリストとは、旧約聖書の預言が成就された出来事、神の出来事である。そこにイエスの誕生の大きな意味がある。神が私たち人間の世界に働きかけられたというのは、驚くべきことである。そのことは、ザカリヤの記事でも示されている。彼が香をたいているとき、御使いが現れた。私たちは神に仕え、神に献げ物をしたり、香をたいて神の喜ばれるようなことをするのが、宗教であると思いやすい。しかし、ここでは神がザカリヤに御使いを送ってこられた。神のために人間が何かしていくと思っていたのに、神の方から近づいてこられた。聖書が私たちに訴えている出来事とはそれである。そこに他の宗教とキリスト教の違いがある。どうして神を喜ばせていくかということではなくて、神が私たちの方へどのようにして近づかれ、何をされたかに目をとめていくのがキリスト教である。

 ヨハネの父ザカリヤと、その母エリサベツは、「二人とも神のみ前に正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた」人である。旧約の思想では、正しい人は神から祝福を受ける。例えば、子どもがたくさん生まれるとか、あるいは事業が繁栄するとかいうことを、神の祝福のしるしと見ていた。ところが神の前に正しい行いをしていたザカリヤたちには、子どもがなかった。それは理解できないことであった。

 私たちはよく「どうして」と言う。神に対してもそれを言うことがある。「どうしてそんなことが、私にわかるでしょうか」(1:18)、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」(1:34)。それは神を自分の秤で計ろうとしていることである。私が理解し、納得できたら信じようという生き方である。そこでは神ではなく自分が主人になっている。

 私たちの信仰の基盤は、私のような者を神が心にかけて下さったということを知ることにある。「主は、今私を心に掛けて下さって」(1:25)、「この卑しい女さえ、心に掛けて下さいました」(1:48)。神はこの私を心に掛けて下さっていたことに気づくところから、ほんとうの信仰が始まる。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主なる神をたたえます」。これが信仰である。

 今別に信仰する必要がないとか、そのうち教会へ行きますとか言う人がよくあるが、それは信仰がよく分かっていないのであって、キリスト教信仰は、自分が必要だから信じたのではない。神が私たちの方へ臨んでこられたから、信じるようになったのである。神が私のような者を心に掛けてくださった、そのことが私たちの信仰の始まりであることを、いつもはっきりさせておかねばならない。神の出来事だということ。