神はモーセの死期の迫った時に、アバリムの山に登って、イスラエルの人々に与える地、すなわち、主が約束された地を見なさいと言われた。聖書には「山」がよく出てくる。アブラハムがイサクを捧げるために登った山はモリアの山であり、そこで神の現臨にふれたのだった。また、モーセが神から十戒を授かったのもシナイ山であった。新約の時代の主イエスが山上の説教をされたのも、ご自身が変貌されたのも山の上であった(マタイ17:2)。そのように、聖書では山は神との出会いの場所である。だから、神殿や聖所などはみな山の上に立てられている。
創世記19章17節にはソドムから逃れようとするロトに向かって、主は「低地にはどこにも立ち止まってはならない」と言っておられる。この低地という言葉はダンスをするとか、グルグル回るといった動詞から来た言葉だとのことである。従って低地とは惰性に流されていくような生き方をさすらしい。
トルストイは、悔い改めとは回れ右をすることだと言ったそうである。回れ右すれば、今まで右に見えていたものが左に見え、左に見えていたものが右に見える。大切なものと無意味なものとが逆転するのが当然である。ところが、主イエスをキリストと告白しながら、依然として古い生活のときと同じように、私たちの中で価値の転換がなされていないとするならば、それでは回れ右をしたのではなく、あとずさりしていることになる。そんな生活は不安であり、必ずつまずいてたおれてしまうだろう。
モーセはアバリムの山に登ってはじめて神の約束の地をはっきりと望み見ることができたのである。彼はそれを見てどんなに喜んだことであろう。主は言われた、「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。 山に登った者だけが神の国を見ることができるのである。そのゆえに私たちも、「低地にはどこにも立ち止まってはならない」のである。
さて、モーセはアバリムの山に立ち、カナンの地を見渡すように命じられた。その地を去ってエジプトへ行き、既に400年を経、とうの昔に彼らの土地ではなくなっていた。その地へ入るには戦って奪い取る以外に方法はない。そこには当然土地をめぐる争いが予測された。勝ち負けが問題になる争いなのだから、何よりも勝つための祈りを神に捧げててもよさそうなもの。しかし彼はそうしなかった。彼は神に向かって「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ」と祈った。勝ち負けを超えて、霊が与えられることを願っているのである。人間が勝ち負けのみを問題にして事を構えれば、人間の思惑が優先する。そうなれば信仰共同体というよりは、人間の集まりになってしまう。霊が与えられるとは、信仰に基づく共同体となることを意味する。信仰共同体は人間の思惑を優先しないのである。
だから信仰共同体の後継者を選ぶにも、「霊に満たされた人」でなければならない。戦いも「つまり共同体全体は、エルアザルの命令に従って出陣し、また引き揚げねばならない」(21節)とあるように、霊の導きにより、祭司エルアザルの指示に従うよう神は命じる。すなわち、戦いも含めてすべてのことは神の意志(聖霊の働き)を聞きつつ歩んでいくことが求められているということである。これは私たちの信仰生活にも言えることである。人間の思いを超えて、聖霊の働きに期待し、信頼していくことが大事である。