「聖霊の賜物とは」 コリントの信徒への手紙一12章1-11節

ここでパウロは、聖霊の働きの最も根本的なことを語る。それは、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と信仰告白できないということである(3節)。これはとても重要なこと。「イエスは主である」。これは私たちの信仰の根本であり、土台である。この信仰告白の上に、私たちの信仰生活がある。

 なぜ、聖霊の助けなしには「イエスは主である」とは告白できないのだろう。それは極めて困難なことであるからである。「イエスは主である」とは「他のすべてのものを主としない」ということ。しかし、「彼らの神はその腹(彼らは腹を神とし)」(フィリピ3:19)と記されているように、私たちは自分の思いや考えを神としている。自分が大事、あとのことは二の次。自分が何よりも大切なものになっている、腹を神としている。これは否定しようもない私たち人間の有りよう。そのような私たちが、そのことを否定して「イエスが主である」と言うことなど、とてもできるものではないだろう。

 またパウロを見ればわかるのだが、パウロは当時のユダヤ教神学やギリシア哲学の極みまで学んだ人物。しかし彼は聖霊によらなければイエスは主なりと告白できなかった。また彼は他の誰よりもユダヤ教の信仰に熱心な人だった。その熱心さによってもなお、イエスを主と告白できなかった。学問や経験を積んでもダメ、努力や熱心さでもダメ。だから彼は、聖霊の導きによらなければできないと告白したのもうなずけよう。

 逆に言えば、クリスチャンはすべて信仰告白してバプテスマを受けているから、すべてのクリスチャンは全員、聖霊の導きを受けていると言えるだろう。同時に、どんな不思議な霊的経験をしても、「イエスは主である」との告白に導かれないのなら、それは神の霊によるものではないということである。この点、信仰告白している人は例外なく聖霊に導かれていると確信してよいのだし、確信すべきなのだ。そして、その聖霊の働きに信頼し、期待するのである。

 次に、パウロは、聖霊の賜物(カリスマ)の多様性と、賜物が同じ神から与えられていることを教えている。賜物と務めと働きにはいろいろあるが、これらは「同じ霊、同じ主、同じ神」によるものなのである。具体的には、「知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、それを解釈する力」である。

 しかし、そのような霊の賜物に中で、コリントの教会に人たちが最も誇っていた「異言」がこのリストの最後に置かれている。その理由は、「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(7節)ということを強調するためである。

 個人主義的に自分の霊性を誇ったり、他者と比べて優越感を覚えたりすることは、まったく誤った考えであり、むしろ教会全体に益をもたらすという神の目的を自覚すべきだとパウロは主張する。この点、現代の私たちも賜物は異なるにせよ、「全体の益」のために賜物を捧げているかが問われている。11節には、誇るべき理由のないことを、「“霊”は望むままに」霊の賜物を一人一人に分け与えてくださるからだと確認している。その人が優れているからではなく、聖霊のお望みになるままに与えられた賜物なのだ。霊の賜物とはそのようなもの。感謝して用いよう。