キリスト教の倫理は、愛と自由であるといわれる。愛とは他者に対するあり方であり、自由とは自分自身へのあり方であるといえるのではないだろうか。
パウロは10節で「愛は律法を全うする」と言い、他者を愛することがどれほど大きい意味を持つかを強調している。もともと律法は、他者との関係にいくつかの「~するな」との戒めを持っている。パウロはここ9節で「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」などを取り上げている。それらの「~するな」に対して、愛は「~しなさい」と結ぶ、肯定的な前向きの戒めである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」を肯定的に前向きに捉え直せば、「隣人を愛しなさい」と一つになるのである。その意味を捉えて、パウロは、「愛は律法を全うする」と言っているのである。
しかし、「愛する」ことは義務ではない。「だれに対しても借りがあってはなりません」とはその意味である。「愛する」とは、結果として温かい他者との関係を作り上げるものである。もし義務で他者を愛するなら、冷たい人間関係が残るだけだろう。
マザー・テレサは「愛情の反対は、憎しみではなく『無関心』」と言ったが、本当に無視されることほど、人間の尊厳が大きく傷つくことはない。『そんなの、関係ねえ』というフレーズが昔はやったが、現代の日本人は自ら関係を絶つことを望むような傾向にあるように思われる。隣近所の付き合いからはじまって、地域のつながり、職場の付き合い、親戚との付き合い、友だちとの付き合い、様々な付き合いをわずらわしいものと思うような傾向がないだろうか。そのようにして自ら関係を絶っていくことにより、ますます孤立感を深め、人間不信を増長させ、さらに自分自身をも傷つけていく。最後は自己否定へと陥ってしまうということになってはいないだろうか。「だれでもよかった」という殺人容疑者の供述はそのことを物語っているように思う。関係性の喪失の悲劇である。
以前、カトリックのシスターである弘田しずえさんの講演を聴いたことがある。弘田さんは国際的に世界の平和と人権のために活躍されているシスターである。その弘田さんが講演の中で繰り返し「つながる」ということの大切さを訴えられていた。私はそれ以来、「つながる」ということはどういうことか考えさせられてきた。結論から言うと、それは「愛」の行為の具体的な関わりであろう。先ほど「愛する」とは、結果として温かい他者との関係を作りあげることだと言った。その「温かい他者との関係」がシスター広田しずえさんがいう「つながり」であり、マザー・テレサのいう「無関心」とは反対の「愛情」であり、関係性の構築である。
そして、その「つながり」は内向きではなく、外向きの「つながり」でなければならない。基本的には教会の置かれている地域につながることが求められる。開かれた教会とは、地域と開かれた関係性をつくっていくことだ。何でつながるのか?金でつながる。そんな金は教会にはない。教会にあるのは「愛」。愛のつながりである。地域に仕える教会として、愛のつながりをつくることが求められている。