「罪の象徴としての十字架」 民数記21章4-9節

イスラエルの民がホル山から進み、紅海の道を通ってエドムの地にまわろうとした時、民はその道に堪えがたくなって、神とモーセにつぶやいて言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」(21:5)。

 荒野を旅する彼らには、毎朝天からマナ(食物)が降ってきた。しかし、今彼らはその神よりのマナを「こんな粗末な食物」とつぶやいている。彼らにはいつの間にかあのマナが魅力のない食物になってしまっていたのである。それ故に彼らはもはや朝早く起きてマナを集めるようなことはしなくなった(出エジプト16章参照)。彼らは「パンも水もなく」とつぶやいているが、実は彼らは求めなくなったからなくなったのである。

 ヤコブは「あなたがたは、求めないから得られないのだ」(ヤコブ4:2)と語っている。いつとはなしに神の言葉を求めなくなった。あたかも生の秘密のすべてが聖書の中に隠されてあるかのごとくに思って、尋ね求めた時代。そうした初心がいつの間にか忘れられ、現実の生活の方が大きくなり、この現実を生きていくのに御言葉が取るに足りない軽いものに思われるようになったとき、私たちは求めることを怠るようになる。そして求めることを怠る時、私たちは何ものも受けることができなくなり、この世の真中で飢えて死にそうになる。

 「私はここで飢えて死のうとしている」(ルカ15:17)。放蕩息子は自分の飢えの原因がどこにあるかを知り、父のもとに帰った時、そこには素晴らしい饗宴が待っていた。主は言われる。「背信の子どもたちよ、帰れ。私はあなたがたの背信をいやす」(エレミヤ3:22)。神に帰る以外に私たちの真の解決はない。
 
 荒れ野で炎の蛇に咬まれて死ぬという災いを避けるため、モーセは炎の蛇のかたちを青銅で造り、それを旗竿の先に掲げた。炎の蛇とは、実はイスラエルの民が荒れ野の旅の辛さに不平をもらしたことへの罰として神が送られたのだ。蛇は民の罪の象徴であった。その罪のしるしとしての青銅の蛇を仰ぎ見ると蛇が咬んでもいやされ、命を得たのである。

 イエスは十字架の上でご自身を青銅の蛇にたとえられ、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:14-15)と言われる。私たちが十字架を見上げる時は、罪の象徴として旗竿の先に掲げた蛇であるキリストを見るのである。その時、私たちは、荒れ野で蛇を見上げた者が救われたように、自ら蛇となって死んでくださった救い主を見上げて救われるのである。教会に十字架のしるしが置かれているのは、私たちが救われるためには何を見なければならないかを教えるためである。