「すべて神の栄光のために」 コリントの信徒への手紙一10章23-33節

コリントの教会のスローガンは「すべてのことが許されている」だった。ここでパウロは2回それを繰り返し、「しかし、すべてのことが益になるわけではない」、「しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」と警告する。益になることは造り上げること。「自分の利益ではなく他人の利益を追い求める」(24節)こと。これが教会の問題を解決する根本的な道であることをパウロは確認する。これがキリストによって共に生きる道である。
 
 偶像に供えられた肉の問題を、この道によって解決するとどうなるのだろうか。第一に、市場で売られている肉は良心(意識)の問題として詮索せず自由に食べてよいと言い、「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからと確認する。当時は「偶像に供えられた肉」が下請けに出されて市場で売られていることは日常茶飯事。そのような状況の中で、事実上、買う者が、市場の肉の由来を自分でつきとめることは不可能であったから、そんなことをいちいち詮索してもしょうがないのも事実である。主イエスも、同じようなことを言われている。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく」(マルコ7:15)。
 
 さらにパウロは、27節で「あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と説く。しかし、異教徒の家に招かれて、食事の時、「これは偶像に供えられた肉です」と注意されたら、その注意した人のため、その人の良心のために食べてはいけない(28節)と警告している。偶像に供えられた肉だと言われて食べるのをやめるのは、そういうことを指摘して気にしている他人の意識を配慮して差し上げているだけであって、別に自分の意識にとってはどうという問題ではない、と言っているわけである。「私の自由が他人の意識によって裁かれることなどあり得ない」と言うのである。しかし、その自由が他の人の良心にとって益にならないときは、その自由を断念するのが、本当の「益」であり、「造り上げる」ことなのだ、とパウロは教えている。

 日本人がクリスチャンになる場合、風俗と信仰とをどうマッチさせるかが大きな問題である。突飛なことをして未信者の目を見張らせたり、私は自由にされたのだから、他人がどう思おうと「我が道を行く」のだという人も見かけないではない。私はやはり「愛の原則」が中心だと思う。すなわち愛の配慮である。パウロが言っていることは、何も現実と妥協せよと説いているのではなく、現実の人たちに誤解やつまづきを与えないようにというのである。

 私たちの信仰生活には、大切なこととさほどでもないことがある。大切なことは一歩も譲れないが、そうでもないことは、神を知らない人々への愛の配慮を原則にしていくことである。「自分の利益ではなく他人の利益を求める」、自分を愛するように隣人を愛しなさいに通じることではないだろうか。それが、人々が救われるため(33節)になるのではないか。敵を造ることもない。
 
 これは現代の教会にも、さまざまな応用問題に適用されうることである。決め手は何か。「何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」(31節)。これが結論。具体的には、キリストの体である教会を「建て上げる」ために益となるかどうかである。神の栄光のためにするというのは、生活とかかわりのない場で神の栄光を表わしていくものではなく、私たちの日常の具体的な生活が栄光を表わさなければならないということである。ともすると生活は生活、その生活から出て、どこかの世界で栄光を表わすというような錯覚に陥りやすい。が、そうではなく、飲んだり食べたりという泥くさい日常生活の中で、一つひとつ栄光を表わしてくださいと祈り、励むのが、私たちの信仰生活なのである。