今日の聖書個所は、出エジプトの民が荒野を旅し、天からのマナに養われていた時のことを記している。しかし、「民は主の耳に達するほど、激しく不満を言った」。「誰か肉を食べさせてくれないものか。……どこを見回してもマナばかりで、何もない」(11:6)と。そこで、「主は民に対して憤りを発し、激しい疫病で民を打たれた。そのためその場所は、キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)と呼ばれている」(11:33-34)と記されている。
いろいろな罪の形態があるが、キリスト教会では、「貪欲」をその代表的なものと考えてきた。それは、貪欲の正体の中に「恵みに足ることをしない」ということがあるからではないか。マナは天からの恵みの食べ物。それは、ちょうど神の言葉によって養われることの暗示になっている。御言葉によって養われることは、神の恵みによって養われること。しかし、これに「足ること」を知らず、「どこを見回してもマナばかりで、何もない」と言い出したら、どうなるのか。その時、民は滅びると、聖書は語っているのである。恵みに足りることをしないとは、神に足りることをしないこと。神を不足とするならば、生きる意味も、目的も、投げ捨てていることになるだろう。神を不足として、人間が人間として生きていけるはずがない。貪欲や欲望は、そういう人間として生きていけない凄まじい墓場の姿なのだと聖書は言うのである。現代の社会はこの貪欲の墓場になっていないだろうか。
では「恵みに足りる」とはどういうことを言うのだろうか。「足る」を知るということについてパウロは、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」(フィリピ4:11)と記している。ここで言われている「満足」という言葉は、ギリシア語で「アウタルケース」。内的な自由を意味し、重要な生き方を意味していた。それは、外的な境遇によって左右されず、「自足」して生きる自由を意味している。もし逆に、足ることを知らず、自分の中に不平不満を抱えて生きるとすれば、ごくわずかな境遇の変化にも左右されてしまう弱さになる。また、「自足」できないということは、自分の中でトラブルを解決できていないということであって、それが、自ずと周囲の人間関係の中に出てしまい、トラブル・メーカーになってしまうとも考えられる。
パウロはこの後すぐに、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(13節)と語った。「足ることを学ぶ」ということは、ごく限られた宗教的エリートだけが身に付けることができる精神修養や哲学的訓練として言われているのではない。そうではなくて、「わたしを強めてくださる方」がおられるとパウロは語る。この「強めてくださる方」と共に生きているということが重大である。そこがあるかと、今朝、わたしたちに問われている。