「忠実さの中味が問題」 コリントへの信徒への手紙一4章1-5節

コリントの教会は、共に生きることに失敗しかかっている教会だった。内部に党派争いがあり、分裂に至る危険があった。
 
 そこでパウロは、自分たちは、「キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者」(1節)だと言っている。ここで最も重要なのは、「仕える者」や「管理者」に求められているのは「忠実である」ということである。
 
 さて、その「忠実である」ということだが、誰に対しての「忠実」であるかが大事であろう。当然ここで求められているのは、「キリストに対して」忠実だということ。キリストに忠実に生き、働いているかどうかである。また、「忠実である」とは、ただ言われたことを実行するだけではなく、そこに秘められた意味、目的を正しく読み取り、それを生かしていくことである。「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」とあるように、秘められた計画、その意味するものを考え、行っていくことが求められのである。
 
 マタイ福音書の25章のタラントンのたとえ話からも、そのことが言えるだろう。5タラントン、2タラントンを預けられた僕は、それを生かして働かせて増やしていった。なぜ、主人が自分に大金を預けていったかを考えたからである。これは商売をせよという主人の心を見抜いて、彼らはそれを働かせたのである。ところが、1タラントンの僕の場合、何のためかを考えもせず、地中に埋めておいた。彼は使いこみなどの不正はせず、元金はちゃんと返している。それなのに「悪い怠惰な僕よ」と叱られた。それは主人の秘められた意志をくみ取らなかったからである。
 
 今日私たちがキリスト者であるのも、まったく信仰というタラントンをあずけられているのである。それをただ自分の中に隠しておいて、私はキリスト者として一生を過ごしたといっても、また誰一人にも伝道や証し、奉仕をしないのでは、忠実な僕ではないだろう。何をするにも、イエス・キリストのみ旨に聞きつつ、生きることが大事である。
 
 今の世の中で、家庭で、職場で、学校で、地域で、自分がキリスト者にされたのはどんな意味があるのか、この私にいのちを与え、生かされているのはどんな意味があるのか、神のみ旨、キリストの秘められた意志、目的をしっかり考えていくことが必要である。神に与えられたあなたのミッション、使命のことである。生き甲斐と言ってもいいだろう。神があの人ではなく、この私にいのちを与え、今日まで生かし、タラントン(才能、賜物)を与えて、育ててくださり、そのうえ信仰までも与えてくださったのは、あるいはこの私が選ばれたのはどうしてなのかを求めていくこと、気づかされていくことが本当の忠実な働きにつながっていくのではないだろうか。
 
 私たちは考える自由が与えられている。祈る自由が与えられている。タラントンを自由に用いることもゆるされている。その特権(恵み)を生かすことがキリストへの「忠実な」生き方である。