民数記は、「イスラエルの人々がエジプトの国を出た翌年の第二の月の一日、シナイの荒れ野にいたとき、主は臨在の幕屋でモーセに仰せになった」(1:1)から始まる。「荒れ野」は、イスラエルの民が精神的に根本から鍛え直された故郷であり、そのように理解し、自分たちの文化や信仰の原点と見なした場所である。だから、預言者たちはイスラエルの民の精神的弛緩や堕落を見ると、荒野へ行って本来の自分を取り戻せと叫んだのだった。
さて、その旅だが、20歳以上の男性だけで60万人を越える民族大移動である。イスラエルの民は、今までそのような経験をしたことがない。しかし、そうだからと言って、各自が自由に振舞っていては、荒野を乗り切ることはできない。だから神の民共同体として、各自の役割を明確にし、神の言葉に従いながら、約束の地に向かう旅が整えられなければならない。そのことの始めが、神からの命令、「イスラエルの人々の共同体全体の人口調査をしなさい」であった(2節)。
民数記には二度の人口調査が記されている。最初の人口調査は冒頭部分で、荒野を旅するにあたって、外敵から民を守り、先住民の間を通過するためのものだった。二度目の人口調査は(26章)は、新世代による「約束の地カナン」への侵入のためのものという、いずれも軍事上の必要からであった(3節)。
人数を数えるというのは、直接的には軍事的必要だったかもしれないが、それは数える側(指導者層)の論理である。一方、数えられる側(多くの民たち)にとっては、それは何を意味したのだろうか。荒れ果てた大地を、行く宛ても知らずに旅する時、いったい自分は何者なのかという問いが出てくるのではないだろうか。イスラエルの民は、帰る場所を持たず、全財産、全家族を抱え、すべてを賭けた極限状態での旅を続ける。しかし、そのような荒れ野において、神の民に数えられている者であるという自己認識は、荒れ野の旅を続ける上で、大きな支えになったことだろう。
よくある例だが、定年退職した男性が、家庭では家族との会話はなく、奥さんからは疎んじられ、地域からは数えられておらず、行く先もない。一方、家族との会話が弾み、大事にされる、地域から、またいろいろなところから必要とされ、何か行事や仕事がある度に数えられて、覚えられて、役割が与えられる。期待される。何と生き生きしたやりがいのある第二の人生だろうか。それは退職した男性ばかりの話ではない。私たち人間誰でも同じこと。数えられている、覚えられている、役割が与えられる。なんと素晴らしいことだろうか。
私たちキリスト者はその上にさらに、神に数えられている、覚えられている、教会から祈られている。何という恵み。それだけではない。生き甲斐、役割もそれぞれにふさわしいあり方で与えられている。祈る、奉仕する、献金する、伝道する、賛美する、教える、証しする、励まし支えるなどなどいろいろある。どれもそれぞれに与えられた賜物を精一杯使ってできる喜びと感謝にあふれる。まさに生きがい、生き生きとした第二の人生。信仰生活とはそのようなものだと言えるのではないだろうか。私たちは神の数えられている、覚えられている、教会から祈らtれている。その確信があるゆえに、根源的な生きる力が与えられるのである。