2020/03/29
私たちはコロナウイルスの影響で1か月前より礼拝と祈祷会以外を中止し、そして今週はついにそれぞれの場所で礼拝を守ることとしました。会堂に集わないということは私たちに様々な影響を与えています。失ったものが多いと感じます。しかし、礼拝と祈祷会以外を辞めるという決断の時、礼拝と祈祷会は絶対にやめないという思いを込めていました。私自身、早く交わりを持ちたいと思いはあります。しかしまず今日は、礼拝が出来るという恵みに目を向けたいのです。不安な時だからこそ、できないこと、足りないものではなく、神様からの恵みを数えるということを大事にしたいのです。 今日皆さんと分ちあいたいのは、この不安の時代、もう一度礼拝の恵みを、イエス様の恵みを、いま私たちが失っているものではなく、私たちが受けている恵みに感謝し礼拝をしようといことです。私たちは無いものではなく、あるものに目を向けます。ないものではなく、「ある」「私はある」というお方に、神様に目を向けたいのです。だから今日も共にみ言葉を頂きましょう。 今日の物語の中でもっとも不安なのはペテロです。彼は自分の信頼してきたイエス様が犯罪者として逮捕される、そのような不安からめちゃくちゃに剣を振り回します。不安で神を忘れる姿です。私たち人間は不安の時、誰でもいいから不安をぶつけたくなります。剣を振り回して、相手を傷つけることで、誰かにぶつけることで、不安から逃れようとします。そしてカヤファも不安に襲われました。彼は一人のために全体が迷惑をこうむるなら、その一人は死ぬのもやむを得ないと考えました。一人が死ねば済む問題、犠牲になってもらうという考え方です。これが人間が不安に直面した時の考えです。不安から逃れるため、すぐ暴力や犠牲を選んでしまうのが人間です。 しかしイエス様はそのような人間の罪のために、十字架にかかられます。私たちは不安の時、どのようにその不安に向かい合うべきでしょうか。暴力でも犠牲でもない向き合い方を私たちは探し求めます。その時、イエス様がどんなに不安でも、苦難を受けると分かっていても、神様に視線を合わせ続けたお方だという事を知るのです。 イエス様は苦難と苦しみの中で、神の働きを、神の恵みを、神の導きを求めたお方です。そこから逃れる、相手を打ち破るのではなく、その中に神様の導きを見つけようとしたお方です。どんな時も神を忘れません。その姿をイエス様の十字架の中に見つけます。イエス様は十字架で「成し遂げられた(ヨハネ19章30節)」と息を引き取られたのです。十字架の上の、最後の一息まで、イエス様は神の働きを見続けたのです。私たちも苦難の時、神を見る者、礼拝を続ける者でありたいのです。 私たちは今日、また1週間それぞれの場所へと出てゆきます。不安と共に出発をするのは、私たちもイエス様も同じです。でも私たちは不安ではなく神を見つめ、委ね、歩んでゆきましょう。
2020/03/22
マスクは足りているでしょうか?私たちはウイルス感染拡大の不安の中に生きています。不安な時、私たちは本能的に自分の身は自分で守ろうとしますが、その思いはバランスを崩してしまいやすいものです。足りないマスク、自分の分だけを確保しようという思いが、パニックを起こします。...
2020/03/15
4月から週報に記載されている「兄」「姉」の表記をなくすことになりました。この表記を変更するのは一つにはジェンダー(役割としての性)の視点、もう一つはセクシャリティー(性自認)の視点によるものです。...
2020/03/08
日本バプテスト連盟では繰り返し、原発に反対する声明を出しています。原発の課題というのはいくつかに分かれます。例えば核兵器への転用、労働者被爆、コスト、廃棄物の処理方法などです。キリスト教が反対する一番の理由は原発が極端に危険な発電方法だということです。ひとたび事故が起きると、どのような事になるか皆さんもよくご存知でしょう。...
2020/03/01
新型コロナウイルスへの対策について教会でも様々な検討を行いました。基本的に3月中は礼拝と祈祷会以外はすべて中止とすることにしました。苦渋の決断で、この判断がよかったのかどうか、まだわかりませんが、必ずまた再開するという気持ちで一時中断します。...
2020/02/23
本日は冬季休暇をいただいています。宣教は安西徹さんに担っていただき、この紙面を借りて、いつも悩んでいることをお分かちします。...
2020/02/16
「建国記念の日」2月11日は、もともと紀元節と呼ばれた日です。紀元節は富国強兵を推し進めた明治時代から祝われ、日本書紀の神武天皇が即位したという伝説に基づいています。神道では天皇は神ですから、私にとってこの休日は天皇を祝えと言われているように感じます。神道の神・天皇を祝うかどうかは、個人の信仰によって決められるべきです。しかし今日本では、全員が祝う様に、祝日と定められています。ですから教会は2.11を「建国記念の日」とは呼びません。「信教の自由を守る日」と呼び、様々な集会を持ち、信教の自由の大切さ覚える日にしています。 今日の個所でも信教の自由が語られていると私は読みます。私たちは神様と私の一対一の関係の中で、何を、誰を神とするのかが問われます。そしてその中で私は富国強兵の神ではなく、イエス・キリストによって示された神様の事を見つけるのです。今日はそのことを共に見てゆきたいのです。 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」とは、キリスト教は一神教なので自分達以外の神は全部間違っている、関係してはいけないという意味ではありません。聖書はそのような排他的、独善的な信仰ではありません。ここでの対話「あなた(人間)には私(神)を」はそれぞれ単数形です。神様は人間に一対一の個人的な関係の中で語り掛けています。しかも語り掛けられているのは出エジプトによって、主に救われた者です。主に自由にされた人に向けて、他の神ではなく、主に従う様に促されているのです。様々な神の中で、あなたはここまで導いてきた私以外の神に、従うはずはないと語り掛けられているのです。 そしてもうひとつ、私たちの従う神様の特徴を押さえておきたいのです。日本の中にいる多くの神々は「豊かさ」をもたらす神様です。しかしイエス様は「貧しい者は幸いだ」と言います。それは、キリスト教が豊かさばかりを追い求める信仰とは違うということを示しています。明治時代の日本のように相手を負かして、豊かになるという宗教ではないのです。私たちは弱く、貧しい者として、この導いてくれる神様しか頼る場所がいない者として弱さ持って生きてゆく事が促されています。教会より豊かさを感じる場所はたくさんあります。でも私たちは豊かさを求めず、そこに行かないのです。 私たちは豊かさを神としない道を歩みます。この貧しい者と共にいる神以外を拝まないのです。私たちは誇るのは豊かさではなく貧しさです。私たちの神はまずしき者と共にいる神です。私たちの神は痛みと苦しみを負った、十字架のイエス・キリストです。私たちはこの方以外を神としません。他の人々がどんなに豊かさと強さを追い求めたとしても、私たちはそれを神としません。祝わないのです。今週も私たちは一週間を生きていきます。豊かさと強さが欲しくなる一週間です。しかし、神様は貧しさと弱さの中に、おられます。その中に神を見つけて歩む一週間としてゆきましょう。
2020/02/09
よく「教会に行くとどんなご利益があるんですか」と聞かれます。「あまりない」とか「キリスト教はご利益宗教ではございません」と答えると「じゃあなんで毎週行くのですか?」と不思議がられます。...
2020/02/02
今日から3回、出エジプト記から神様の姿を見てゆきたいと思います。...
2020/01/26
出前のお寿司屋さんで働いていた当時、一番つらい事は、そのお寿司を届けられなくなってしまう事でした。様々な事情から届けるのが数時間遅れることがありました。当然、届けた先でお客さんから怒られ、怒鳴られます。家の奥からはお腹の空いた子どもの泣き声が聞こえ、機嫌悪そうに言い争う家族の声が聞こえます。たかが寿司です。でもそれが無いとどれだけ場がしらけるか、どれだけ人を怒らせるかを私は痛いほど知っています。 一方、お客さんの家では犯人捜しが始まっています。そして、だいたい注文をしたお父さんが犯人扱いされているものです。「お父さんがちゃんと頼まなかった」と家族に怒られ、白い目で見られます。今日は贅沢にお寿司だぞと、大風呂敷を広げて、自慢していたお父さんの面目は丸つぶれです。 食事が足りない、飲み物が足りないって案外、大ごとです。特にそれが大事な日であればあるほど、その食事は失敗の許されない食事になります。 今日の聖書個所、他人ごとではありません。イエス様は食事や飲み物が足りない現場にいて、宴会が続くようにして下さるお方です。楽し時を過ごそうよ、そう言って、守って下さるお方です。神様が一緒にいるのは悲しい時だけではありません。喜びの時も神様はともにいて下さいます。そして、それが続くように取り計らってくださるのです。 今日の物語でイエス様は「今あるものに感謝して、満足しましょう」とは言いませんでした。だれも飲みきれない程の量のワインを奇跡によって出しました。それはこの喜びの宴会を続けようというメッセージです。 聖書にはたくさん、悲しみと苦しみに伴ってくださる神様が描かれています。人生の暗闇の中で輝くイエス様の姿が描かれています。でも、神の姿はそれだけではありません。神様は人間の喜びや祝や楽しみがある時も、共にいて下さることがここで示されています。イエス様はこの楽しい時が、人生の喜びの時が終わらないように、続くように、私たちにはからってくださるお方なのです。みんなの笑顔を願われるのが神様の姿です。 宴会に参加している人はこの奇跡には気づきません。気づかず歌って楽しんでいました。私たちもそうかもしれません。楽しみの時、喜びの時、神様の守りを忘れてしまう存在です。この喜びがどこから来たのか、知らない者なのです。でも私たちの喜び、平安には、イエス様が背後におられるのです。 弟子たちはなぜ信じたのでしょうか?それはイエス様が、私たちの喜びを共にしてくださるお方、その喜びが続くように願っているお方だということを知ったから、彼らは信じる者となったのです。私たちもそうなりたいのです。喜びの背後に神様の姿を見つけたいのです。 今の私たち、大きな苦しみの中にある方がおられます。神様はそのような方と共におられます。そして、喜びの中にある方もおられます。そのような方とも神さは一緒にいて下さいます。