カテゴリ:礼拝メッセージ2018



2019/03/31
私たちは、意識するとしないとに関わらず、往々にして、「その宗教がどれだけ役に立つか」、「礼拝がどれだけ役に立つか」という基準によって判断したり選択したりすることがある。すなわち「神と取引し、自分のニーズに応じて教会や礼拝に関わる」ような意識や行動が、知らず知らずのうちに侵入してきている。だからこそ、私たちはそうした危険に取り囲まれながら、信仰生活や教会生活を送っていることを常に意識し続けていなければならない。  礼拝は人間と神が「取り引き」する商売ではなく、教会もそのための商店ではない。聖書は、あらゆる私たちの人間的な思いに先立って、神ご自身が私たちに本当に必要なものをご存知であると告げている。マタイによる福音書6章25節以下を読むと、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。(中略)あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」とある。  私たちを創造し、私たちを恵み、私たちを見守ってくださる神は、全て必要なものを私たちに与えてくださる方である。私たちが必要とするものを全て喜んで与えてくださる方に対して、どうして「取り引き」する必要があるだろう。礼拝とは、何かを獲得するために人々が集まる場ではなく、私たちに本当に必要なものがすでに与えられていることを知って感謝する人々の集いなのである。  このことを今日与えられた聖書の箇所、ルカ福音書17章11節以下に記されている「重い皮膚病を患っている十人の人の癒し」から教えられたいと思う。この話は、当時のユダヤ社会で大変嫌悪された「重い皮膚病」にかかっていた十人の人が、主エスによって癒され、それぞれ社会復帰を遂げることができたことを語っている。十人は全員が健康になった。しかし、聖書によれば、この癒された十人のうちで主イエスのもとに戻ってきて感謝し、神を賛美した人はたった一人しかいなかったという。宗教改革者ルターはこの物語について、礼拝とは「癒されるための条件」ではなく、「癒された者の感謝の表現」なのだと説いた。  特にここで注目したいのは、十人すべてが癒されたという事実である。感謝した者もしなかった者も、全員その願い通りに癒されたのである。それにもかかわらず、神をほめたたえるために戻ってきたのは、たった一人だったというのである。ここには、神と人間との関係を理解する上で、また礼拝とは何かということを理解する上で、とても重要なカギがあるように思う。キリスト教は、旧約聖書以来の伝統に沿って、次のことを主張する。「すべての人間は神の恵みによって創造され、すべての人間は神の恵みの中に置かれています」。しかし、すべての人間がこの恵みに気づいているわけではない。この恵みに気づいた者は感謝する。しかし、気づかない者は感謝しない。気づいた者は礼拝する。気づかない者は礼拝しない。  私たちの時代は礼拝しない人間の時代である。人間が自分の力に頼ることしか知らず、「神の愛」を信じることのできない時代である。「自分に役に立つか立たないか」を基準にしてすべてを決定し、お互いがお互いを利用する「利己主義の分かち合い」によって生きているような時代である。しかし、そのような世界の中では、人間は本当に人間らしく、安心して生きていくことは出来ない。  キリスト者が礼拝に参加するのは、神から何かを獲得したり、神と取り引きしたりするためではない。私たちが礼拝に参加するのは、神がすでに私たちを愛してくださっていることに気づき、それに感謝するためである。そしてさらに言えば、このような気づきと感謝の中で礼拝することを通して、私たちはこの世に向けて、神に感謝する生き方があること、人間は神の恵みによって生きるということを証しする。私たちの礼拝とは、そのような広がりの中で行われる「神の民」の喜びの告白であり、同時に宣教の業であることを忘れないようにしたいと思う。
2019/03/24
 このお話は「善きサマリ人」の話としてよく知られている話だが、話のつながりとしてはその前の個所において、主イエスと弟子たちが天に名前が書き記されていること、言い換えるならば「永遠の命」を喜びあっているときに、ある律法学者が「永遠の命」を受け継ぐためには「何をしたらいいのか」と質問した話の流れになっている。...
2019/03/17
私たち人間はいろいろな問題に悩まされる。悩みの中で疑問や迷いを抱き、問いを持つ。しかし今朝、聖書を読むと、人間は問うだけではなく、問いかけられてもいるという。神が私たちに問われる。主イエスを通して神が私たちに問うている。そしてこの神の問いかけに答えることが、人間のいろいろな悩みや問題の答えになるのだ。神のその問いかけとは、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」という問い。主イエスはそう問いかけた。ここに実は人間にとっての「最大の問いかけ」があると言ってよいと思う。聖書はその問いかけのために書かれているといってよいだろう。  人生には確かにいろいろな問題がある。例えばトラブルがあり、悩ませられることが様々起こる。そして私たちは自分を見失い、進むべき方向を失い、他者ともうまくやっていけなくなる。しかしその時にも、この最大の問いかけ、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」という問いかけを聞き、この問いかけに答えながら生きるとき、人間は真実に生きることが出来る。  主イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。この問いに弟子のシモンは答えた。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」。そう答えたシモンを主イエスは「岩」だ、ペテロだと叫んで、「その上に私の教会を建てる」と言われた。今朝、皆さんは教会の礼拝に集まって来られた。それは、実は「岩の上」に来たのである。教会はその岩の上に立っている。それはまたどんな問題や悩みの中にあっても私たちの人生を真実に生きることの出来る「岩」である。その岩とは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」という、主イエスに対する信仰告白である。これが教会の土台であり、また私たちの人生の土台なのである。  では、一体、教会とはどんな群れだろうか。それは、どんな時にも、この主の問いかけとシモン・ペテロの答えが生きて、力を発揮しているところである。この問いを「最大の問い」とせず、またあの答えを失ったとき、つまり世の中にはもっと深刻な問いがあると考えたり、もっと別の答えがあると思ったとき、教会はその命を失い、力を失う。逆に、これこそ「最大の問い」とし、それに対する真実な答えをする時、教会はどんな時にも力を発揮する。  主イエスは言われた、「私の教会を建てる」。教会(エクレシア)という言葉は、呼び集められた者の集会、あるいは群れ、という意味。主イエスは弟子たちをご自分の周りに呼び集められた。十二弟子を選んだということは、神の民であるイスラエル十二部族を象徴して、選んだのである。神の民が新しく建てられ、集められるために主イエスは来られ、十字架にかけられた。  新しく神の民が集められるにはどうしたらよいだろうか。何によって民は集められ、一つにされるのだろうか。私たちは罪によって自分自身失われた人間。また、罪によって他者を失う人間である。自己中心のあまり、愛することができない人間である。それにもかかわらず、教会は新しい神の民としてどのように建てられるのだろうか。呼び集められた人間の群れ、教会も愛に失敗するのではないだろうか。その教会が罪と死に打ち勝つところと、どうして言えるのだろうか。天の国に通ずるとどうして言えるのだろうか。それは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子」、この主への信仰告白によって可能にされる外はないのである。  「あなたはメシア(キリスト)」、そうお答えする時、私たちはそのメシアの民とされる。「あなたはメシア(キリスト)」、そうお答えする中で、私たちは罪を赦され、愛の破れを癒される。死から生き返らされる。そうお答えする中で、私たちは真のクリスチャンにされていく。キリストに結ばれ、死と罪から解放され、天の国へと通じる存在にされている。私たちも答えようではないか。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子」と、そう答えることが可能である。天の父がそれを可能にしてくださる(17節)。神は私たちがそう答えることを喜んでくださる。  平塚教会も今までもそうであったように、これからも「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」と、大胆に信仰告白していく群れとして、祈りをあわせ、キリストにあって一つになって歩みを進めていこう。
2019/03/10
 今日一般には、「犠牲(いけにえ)」という言葉はあまり使われてないのではないだろうか。死語になっている。「犠牲」という言葉が使われるとしても、例えば酔っ払い運転の「犠牲」と言うように、その人自身の責任でないのに禍を受ける場合で、避けることができれば避けたかったというような、否定的な意味合いで用いられる。「犠牲」に積極的な意味があるとは理解されていない。だから、「犠牲」という言葉は、現在では宗教的な次元でも、神との関係において理解されていないし、それが持っている積極的な意味も理解されていないと思う。しかし人間の生き方には、「犠牲」なしには成り立たないところがある。家庭生活でも職場でも、福祉や医療や教育の現場でも、権利の主張だけでは成立しない部分がある。「犠牲」という言葉を死語の中から救い出し、積極的な意味合いで理解する必要があるように思う。  特にイエス・キリストの十字架の理解には、この「犠牲」という言葉は不可欠である。イエスの十字架の死をどう理解し受け止めるべきだろうか。聖書によるといくつかの意味、いくつかの受け取り方がある。今朝はその中から、主の十字架は、私たちの罪のための贖いの「供え物」「祭壇に供えられた犠牲(いけにえ)」だということについて、わずかなりとも理解して、受難節の信仰生活の糧を与えられたいと思う。  「犠牲」としての十字架は、「キリストの血」を強調している。「血」は「いのち」の象徴。そしてそれは、「大祭司キリスト」(11、25節)という興味深いキリスト理解と結び付いている。「大祭司」は、神と人間の間の仲保者、取り次ぐ者として働く。さらにその「犠牲」は、「ただ一度」(12、26、28節)のこととも言われている。だから、イエス・キリストの十字架が「犠牲(いけにえ)」だということは、主イエスご自身が「大祭司」(仲保者)として、「ご自身の血」(いのち)を「祭壇」に注ぎ、ささげられたということである。それはもはや二度と繰り返すことが出来ない。それはもはや繰り返す必要のない仕方で、ただ一度にして「永遠の贖い」(12節)を成し遂げられるのである。  「犠牲」は祭壇において、神にささげられる。それは「神との和解」のため。真実の「生きた礼拝」が出来るようになるため。そのためには「罪が取り去られ」なければならない。「罪」は人間を神から引き裂く。この「罪」が「取り去られる」必要がある。そのための「犠牲」である。現代人に「犠牲」という言葉があまりぴんとこないのは、この「罪によって神から引き離される」ということの深刻さがぴんとこないということだろう。人間の本当の問題は、神問題なのである。神から引き離されていることなのである。しかしそれがなかなかぴんとこない。「神なしで生きられる」「信仰なんてなくても幸せ」。しかし、ぴんとこようとこなかろうと、神から離れていることこそが、人間と社会の根本問題なのである。こうも言えるだろうか。ぴんとこようとこなかろうと「神があなたを愛しておられる」ということは真実なのだということ。そのことに気づかないだけなのだということ。  さらに、14節に「永遠の霊によってご自身を傷のないものとして神にささげられたキリストの血」とある。キリストの「犠牲」は「永遠の霊」の働きだというのである。ということは、それは神ご自身の御業ということである。「大祭司キリスト」が神に「ご自身の血」をささげる。そのことは「永遠の霊」によったのだ。主イエスの十字架は「神による神の十字架」なのだ。「神による神への犠牲」である。キリストの「犠牲」は「罪を取り去る」ため。というのは22節「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」からである。しかし、それは神による神への犠牲だった。そこに「ひとたびにしてまったき犠牲」と言われる理由がある。「永遠の贖い」と言われる理由もある。神によるのでなければ、罪の赦しはあり得なかった。私たち自身が罪の者だからである。しかし、「一度にしてまったき犠牲」がある。だからこそ、今日も私たちはそのキリストの犠牲のゆえに罪を取り去られ、礼拝の恵みにあずかることが出来るのである。私たちのどの礼拝も、どの説教も、どのバプテスマも、どの主の晩餐も、どの祈りも、この主の「ひとたびにしてまったき犠牲」によらなければ成り立たない。  このことは私たちの信仰生活に決定的である。私たちの人生はどこまでいっても主の十字架によるほかない。「主の十字架によって御国に入るまで」、日々主の十字架によるのである。御国に入っても、その根底には主の十字架がある。主の犠牲によって真の礼拝があるのだから。この後、賛美する新生讃美歌543番の4節では「世にある中も、世を去るときも、知らぬ陰府にも、審きの日にも、千歳の岩よ、わが身を囲め」と賛美している。「千歳の岩」は1節にある「裂かれし脇の、血しおと水に、罪も汚れも、洗い清めよ」とあるように、主の十字架である。その「犠牲」である。その主の十字架の犠牲は、世にあるうちだけのものではない。世を去るときも、主の犠牲に囲まれている。知らぬ陰府にも、審きの日にもである。私たちは知っている、キリストの犠牲とその愛を。いや、知らされている、気づかされたのである。キリストの血による犠牲によって罪赦された者とされたことを。だから、そのことを覚え、感謝し、献身の思いを持ってこの受難節を過ごしていきたいと思う。
2019/03/03
ここでパウロは「悲しむ」という言葉を使っているが、何か教会の中で不祥事があったようだ。詳しいことはここではわからない。それはパウロ自身にとっても大きな悲しみであり、同時に、それは教会のすべての人々を悲しませたのだ。パウロはここで、不祥事を起こしたその人に対する自分の思いを述べているのだが、それを「悲しみ」という言葉で表現している。そして、その悲しみの感情をあなたがたも持ってほしいというのだ。ひどいことをしてくれた、おかげで自分たちは恥をかいた、そういう怒りや憎しみではなく、あるいは、もうあきれ果てて突き放してしまう、という思いでもない。「悲しみ」である。  人は、自分のしたことに関して、怒りや憎しみを人々から受けて、そこで反省をして自分の非を認める、ということはあまりない。自分自身の非というものはわかっている。わかっているけれども、素直に認められない。非はわかっていても反発をしてしまう。自分だけではないではないか、というふうに思う。ほかの人間もそういうことがあるのではないか、というふうに考える。しかし、自分のしたことに対して悲しまれるとき、人は苦しくなる。あるいは、そうやって自分のしたことに対して他の人が悲しんでいるということを知ったときに、自分の非、つまり間違いを思い知らされる、認めさせられるという経験をする。  ルカによる福音書に、イエス・キリストが捕らえられて裁判を受け、死刑の判決を受ける場面がある。その時、弟子のペテロはその裁判を遠くから見守りながら、大勢の人々の中に混ざっていたのだが、あなたはあの人の弟子ではないか、あの人と一緒にいたのではないのかと言われて、彼は「知らない」と三度否認したと書かれている。その時のことがこう書かれている。「主は振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:61)。これは裏切ったペテロを見た悲しみのイエス・キリストのまなざしである。そのまなざしの中で、ペテロ自身は自分のやったことを本当に心底知らされたのである。自分のしたことに対して周りの者が悲しむ、あるいは肉親が悲しむというのは、だれにでも何かの経験があると思うのだが、悲しまれて初めて自分の罪悪を知り、あるいは自分のやったことに対する自分自身の痛みを経験するのである。それが「悲しむ」ということである。その悲しみによって、人は自分の罪悪を認めさせられる。  パウロはここでこう言っている。「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです」(6-7節)。る。「多数の者から受けたあの罰」というのは何なのかは、書いてないのでわからないが、おそらくいろんな人から何らかのことを言われたのだろう。あるいは注意をされたり、叱責をされたのだろう。しかし、それで十分だとパウロは言う。それ以上追い詰めてはいけないと言う。そうでなくて、「赦して、力づけるべき」だと言うのである。そして「愛するようにしてください」(8節)とも書かれている。赦すということは、痛みを自分も負うということを意味している。自分が痛むことも苦しむこともなく人を赦すなんてことは普通はできない。赦すということは、自分も痛い思いをし、苦しい思いをすることである。特に、自分に関わる出来事、自分が赦さなくてはならないときには、何らかの傷を自分も受ける。  無償で赦すということはない。人々からの責めをそのそばに立って一緒に受ける。赦すということは多分そういうことだろうと思う。そして「力づける」というのは、ただ「がんばれ、しっかりやれ」と言っているのではない。痛みを共有している、一緒に苦しんでいる、その罪のために、そのやったことのために、一緒に苦しんでいる者として力づけるのである。  なぜパウロがこういうことを言っているのかというと、これはイエス・キリストの私たちに対する関わり方であるからである。イエス・キリストは私たちの罪をご自分の痛みとして身に負い、そうして一緒に悩む方として私たちを励ましてくださる、あるいは力づけてくださる方である。向こう側から、離れたところから、「がんばれ」と言っているのではない。あるいは、上の方から「しっかりしろ」と声をかけているのでもない。私たちの悩みのただ中で、一緒に罪を担いながら、共にいて、そして励ましてくださるのである。これが、イエス・キリストが私たちの救い主であるということの意味なのである。かつて私たちを救ってくださったという、そんなことではない。今も私たちの救い主でいてくださる、私たちの罪を担っていてくださる、今も一緒にこの道を歩いてくださる。そういう中での励ましをいただきながら、私たちは生きているのだ。ただただ主の恵みと感謝である。
2019/02/24
俳人の種田山頭火の句に次のような句がある。「まっすぐな道でさみしい」。含蓄のある一句だ。私たちは曲がりくねっている道より、まっすぐな道を選ぶ。曲がっているとすぐまっすぐにしたくなりトンネルを掘ったりする。曲がりくねった人生の歩みより、効率のいい無駄のない人生の歩みをどこか望んでいる。それを山頭火は「まっすぐな道はさみしい」と言うのだ。人生、山あり谷あり。一寸先は闇。何か危機的状況や想定外なことが起こった時、私たちはどのように受け止めて生きていけばいいのだろうか。  ここでパウロは、しばしば聖霊に禁止され、行く手をさえぎられている。パウロはただここで北に西にさまよい歩いているように見えるが、ただ足の赴くままに、のんきに旅を続けているのではない。彼は妨げられているのである。それは神の「否!」にほかならない。しばしばさまようことさえ神の御手の中にあることを私たちは忘れてはいけない。何か思うようにいかないときは、神が「否」と言われているのではないかと思う気持ちの余裕を持ちたいもの。神が扉を開かないところでは、いかなる人間の熱心も、いかなる賢い知恵も、力も役に立たない。箴言の21:30-31に「主に向かっては、知恵も悟りも、計りごとも何の役にも立たない。戦いの日のために馬を備える、しかし、勝利は主による」とある。閉じ込められるのも福音の内、妨げられることさえも聖霊の御業。神はしばしば不確かの闇の中にその聖霊の使者を立たせることがある。それは福音宣教の働きが、人間の手の業ではなく、恵みの御業であることが明らかになるためにほかない。  パウロは、途上で何度も問うたことだろう。「主よ、一体いつこのまわり道が、一つの道になるのですか。いつこのあてどのない漂白の旅が、ひとつの確かな方向に変えられるのですか」と。けれども、このよく語るパウロは、聞くことを忘れない。その聞くことからのみ、真の服従が出てきて、ついに人は慰めに満ちた確信に到達する。詩編の119:45に「私は、あなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます」とある。  この夜、パウロは幻を見た。夜それは、しばしば人が道を失い、あるいは多くの人々が歓楽に耽り、またある者は不安におののく時である。時代の夜、不安の夜、人々はなんとそれにおののくことだろうか。しかし、人間の計画が崩れる時、神の計画がなるのである。箴言19:21に「人には多くの計画がある、しかし神の御旨のみ、よく立つ」とある。パウロが幻のうちに見た、マケドニア人の叫び「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」。それに応えて、パウロたちはマケドニア州に行く。それは新しい戦いの始まる時であった。福音が初めてアジアからヨーロッパに渡る時、歴史的な時であった。「来て、私たちを助けてください」との声を聞いた時、彼らは悟った。「神が私たちをお招きになったのだ」と。「来て私たちを助けてください」との声を聞き、それに従う時のみ、私たちは「神が私たちをお招きになったのだ」という、もう一つの声を聞くことが出来るのである。私たちが妨げられ、邪魔され、行く手をふさがれた時であっても、聖霊の助けに素直に従うなら
2019/02/17
キリスト教は「愛の宗教」であるとよく言われる。では、キリスト教のいうところの「愛」とは何だろうか。それは「神の愛」のことだが、それはどんな愛なのだろうか?まず、「神の愛」とは、愛の対象はすべての人であること。そして無条件で一方的で、無限、永遠にあるものである。それは神の本質そのもの。神とはそういうお方であるということである。「神は愛なり」である。神イコール愛。愛イコール神。そのことを聖書は最初から宣言して、私たちに示している。創世記の最初の天地創造のところに、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」とある。「良しとされた」。この言葉は繰り返し語られ、31節「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と続く。神はすべてのものを良しとされた。これが究極の愛です。愛の表現である。  卑近な例でお話ししよう。赤ちゃんが泣くと、母親は赤ちゃんを抱き上げて、軽く揺すりながらあやして言う。「おお、よし、よし」。優しい、なんと愛情のこもった、いい言葉だろうか。人が生きるうえでの原点となる、尊い言葉だと思う。この「よし、よし」の「よし」はもちろん「良い」という意味の「よし」だから、母親は「おお、良い、良い」と言っているわけで、この時、赤ちゃんは「良い存在」として全肯定されているのである。先ほどの天地創造の時、神が宣言された「よし」と同じである。赤ちゃんにしてみれば、「腹減った」とか「眠い」とか、理由があって泣いているのだから、ちっとも「良く」ないのだけれど、母親はにっこり笑って言う。「おお、よしよし。すぐに良くなる、すべて良くなる。ほら、お母さんはここにいるよ、今良くしてあげるからね。何も心配しなくてもいいのよ。おお、よし、よし。おまえは良い子だ。良い子だね」。  私たち大人はそんなことをもうすっかり忘れて、当たり前のように生きているけれど、誰もが赤ちゃんの時にそうしてあやされたからこそ、自分を肯定し、世界を肯定して今日まで生きてこられたのではなかったか。生きる力を与えられてきたのではないか。「おお、よし、よし」はその人の最も深いところで、いつまでも響き続けているのだ。  今日の聖書箇所もそうである。弟子たちは幼子の存在を否定的に見ている。だから、叱ったのだ。「女子供の来るところではない」。しかし、主イエスは「神の国はこのような者たちのものである」と肯定的に受け入れておられる。主イエスは自分の身近に呼び寄せて言われる。「このような者こそ、神の国に入ること」ができると言われ、子どもを抱き上げ、祝福される。このように私たちは神から肯定され、「よし」とされ、祝福されたものとして生かされているのである。  その意味では、生まれて最初の「よし、よし」は、生きる上での原点ともいえるのではないか。何しろ生まれたばかりの赤ちゃんには、すべてが恐怖である。それまでの母体内での天国から突然放り出され、赤ちゃんは痛みと恐れの中で究極の泣き声を上げる。いわゆる「産声」である。この世で最初の悲鳴である。ところが、それを見守る大人たちは、なんとニコニコ笑っているではないか。そして母親はわが子を抱き上げて、微笑んで語りかける。赤ちゃんがこの世で聞く最初の言葉、「おお、よし、よし」。  わが子が泣いているのに、なぜ母親は微笑んでいるのだろうか。親は知っているからだ。今泣いていても、すぐ泣き止むことを。今つらくともすぐに幸せが訪れることを。今は知らなくとも、やがてこの子が生きる喜びを知り、生まれてきてよかったと思える日が来ることを。親は泣き叫ぶ子にそう言いたいのだ。  「おお、よし、よし。大丈夫、心配ない。恐れずに生きていきなさい。自分の足で歩き、自分の口で語り、自分の手で愛する人を抱きしめなさい。これからも痛いこと、怖いことがたくさんあるけれども生きることは本当に素晴らしい。大丈夫、心配ない。おまえを愛しているよ、おお、よし、よし」。  存在の孤独に、生きていることの孤独に胸を締め付けられるような夜は、生みの親の愛を信じて、そっと耳を澄ませてみよう。きっとわが子に微笑んで呼びかける人生最初の「おお、よし、よし」が聞こえてくるだろう。そして、その言葉の背後に、すべてのものに微笑んで呼びかける、宇宙最初の神の「よし、よし」も聞こえてくるだろう。そして、主イエスが「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」その祝福を私たちにも今日、同じように招いて祝福してくださる主イエスの声が聞こえてくるだろう。そこに私たちは生きる力を感じ、喜びがわいてくるのである。それが神の愛のすごいところ、すばらしいところ。
2019/02/10
神はどんな人にも、その人でなければ果たせない使命を与えておられる。すなわち人は誰でも与えられた「命を使って」生きている。生まれてから死ぬまことだけにしか使わない人は使命を果たしたとは言えない。使命を果たすとは、自分自身の利己心や虚栄心や物欲を制して、自分のためだけではなく、自分以外のたで、人は与えられた命を自分の命として使うことが出来るが、その命をただ自分のめに役立てることだ。それは私たちをこの地上に遣わされた方の御旨に従い、神のために自分に与えられた務めを果たすことだろう。では、神の御旨とは何か。一言で言えば「神を愛し、隣人を愛すること」だ。そのことの具体的な実践は色々あるが、要は私たちがいかなる状況のもとにあっても、全世界よりも尊いこの命を何のために用い、また何のために捧げて生きるかが問われているである。  ドイツ人で上智大学名誉教授のアルフォンス・デーケン先生は「死の哲学」という本の中で、「美しい人間の生きざま、死に方について」書いておられるが、他者のために「生きる」、生きるとは他者のために生きるということである、とはっきり書いておられる。さらに、デーケン先生は、「大きな使命感を感じながら生きていけたら、もっと人生も意味あるものとなるだろう」と言われる。  パウロはこの使命について、揺らぐことのない確信を持っていた。今日の聖書箇所は、パウロが与えられた神からの使命とその内容について語っている。パウロは神のため、そして異邦人のためにその使命に生きた。パウロは、7節で「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました」と言う。福音に仕えるとは、福音に押し出されて止むに止まれず福音を宣べ伝えたいということである。パウロはまた、第一コリント9:16で次のように告白している。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」。  キリストを信じる者となったとき、そのキリストを他の人に、特に異邦人に宣べ伝えるということは、パウロにとっては「そうせずにはいられない」ことであったことがわかりる。真実な信仰とは必ず何らかの形で表現されずにはいられないものである。それが真実に私たちの心をとらえているなら私を動かさないはずがない。「神は愛である」と聞いても、ああそうですか、という程度の理解では、それは確かに何の力もない観念であり、知識でしかない。しかしこの神の愛がイエス・キリストを通して自分に迫っている、そのように受け取る者にとっては、この感動はもはやどこかに表現せずにいられないものとなるのである。  使徒パウロも、はじめはユダヤ教徒だったから、キリスト教徒を迫害していた。その最中に復活のキリストに出会い、一つのことを真実に経験したのだ。それは自分がかつてはどうにもならない罪のとりこであったこと、しかしこの自分をキリストは赦し、神のみ前にとりなし、自由と使命を与えて下さったという事実である。パウロはこのキリストのゆえに神に感謝せずにはいられなかった。だからまた、自分はこの事実を告げ知らせずにはいられないという魂への迫りがあった。この確信こそ、パウロをして伝道者たらしめ、またパウロの全生涯をただ伝道のために使い果たさせたところの究極の力であった。  私たちに与えられているのもまた、これと同じ恵みの経験ではないだろうか。そしてこの恵みの経験こそが私たちを伝道に駆り立てる最も純粋な、最も力強い動機となるのである。「異邦人に福音を宣べ伝えなさい」ということが、もし全員講壇に立って説教しなさいというのであれば、「私にはできません」という人があるかもしれない。しかし「あなたに与えられた恵みを語りなさい」という証しならできるのではないか。また、神を紹介することなら出来るのではないか。教会にお誘いすることなら、チラシ配りなら、とりなしの祈りなら、会堂のお掃除なら……。主に示されたことにチャレンジしてみよう。  使徒パウロと共に、神の恵みを無にしないで、土の中に隠さないで、恵みに押し出されて、福音に仕えることを喜び、それぞれに与えられた賜物を用いて、実践に励んでいこう。
2019/02/03
 今朝の聖書箇所には、神を信じる者の生きる姿が描かれている。この手紙を書いたのは使徒パウロ。彼は8-9節でこう言っている。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。ということは、逆に考えれば、神を信じるから苦労しないとか、生活が楽になるとかということではない。信仰を持っているから物事がうまく運ぶとか、成功するとか、そういうことでもない。おそらくここで書かれていることはすべて、パウロ自身がずっと経験してきたことだろう。信仰を持って、ずっと生きてきた。しかし、四方から苦しめられる、人から虐げられる、あるいは途方に暮れる。これからどう進んでいいか、生きていったらいいかわからなくなる。  その中でパウロはこう言っているのだ。四方から苦しめられても行き詰まらない。道が全く見えなくなって途方に暮れることがあるけれども、それでも失望しない。あるいは人々から虐げられる、ひどい目に遭う。しかしそれでも自分が見捨てられないのだ、と彼は言う。打ち倒されても自分は自分の底力によって立ち上がるというのではない。どんなにひどく打撃を受けてもそこにしっかり自分は立ち続けるというのでもない。打ち倒されるのだ。立っていられない。しかし滅びない、と彼は言う。倒れてそこで終わりだというのではない。滅びない、あるいは滅ぼされない。打ち倒されても滅びないというのは、神が自分を滅ぼされないという意味である。つまり、絶体絶命の中で、しかし滅ぼされはしない。追い詰められてしまうけれども、しかしそこで終わらない。そこで生きるというのである。パウロは、神を信じる者は、まさにその状況の中で生きる、とここで言っているのである。つまり、そのどん詰まりの場所で、神を信じる者は生きるのだと。虐げられて弱り果てている。しかし見捨てられはしない。神に見捨てられてはいない、と彼は言う。それが彼の支えなのだ。だから彼はそこで生きるのである。  彼はさらにこう言っている。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために、わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(10節)。イエスの死を体にまとっていますと言う。生きながら絶えずイエスのために死にさらされています、と彼は言う。つまりあのイエス・キリストが歩かれたように、試練にさらされながら歩いていくのだ、と言うのである。迫害や誘惑や敵するものやそういうものにさらされながら生きていくのだと言うのである。信仰というのは、安全地帯ではない。あるいは無風地帯に入ることでもない。つまり、信仰とはあらゆる危険から身を守るシェルターのようなものではない。試練のただ中で生きるのである。あるいはそこで生かされるのである。それが信仰。それは、精神力ではない。つまり自力ではない。神がそこで生かしてくださる。私たちの力尽きたところ、私たちの知恵の及ばない場所、この世の圧力に抗しきれなくなって倒れてしまうところ、そこで神が受け止めてくださる。打ち倒された私たちを神が支えてくださる。それが信仰によって生きているということである。    詩編46篇2節にこういう言葉がある。「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」。神は私たちが苦難の中にいるときに、私たちを天から見守っておられるというのではない。苦難の中に必ずそこにいまして助けてくださる。だから私たちは苦難の中で生きることができるのである。神が共にいてくださるから。それはイエス・キリストの約束だと言われた。神が、この私たち罪人と一緒にその場所にいてくださる。四方がふさがっても、逃げ道がもう何も見えなくなったとしても、生きる道がある。あるいは、生きる道がそこに生まれる。必ずそこにいまして私たちを助けてくださる。パウロは「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるため」と書いている。  死ぬはずのこの身に、終わるはずのその場所に、イエスの命は現れるのである。行き詰ったところで死なず、倒れたところが終わりではなく、そこで神に出会い、交わり、そこで生きる。そこが私たちの原点になる。生きていく原点になる。追い詰められたその場所が、私たちが倒れてしまったその場所が、私たちが生きていく原点になる。新たな出発点となる。より深い恵みの世界への出口になるのである。  いつも共にいます主が、私たちと出会い、私たちを受け止めてくださる。だから私たちは試練の中にあっても生きられるのである。終わりではない。試練を突き抜けて、思いがけない恵みの港に着くのである。試練なしで、いいことばかりあって、楽をして、どこかいい場所に着く、そんなことはないのである。試練を突き抜けて、思いがけない恵みの場所に私たちは押し出される。その世界に私たちは導かれる。それが試練というものの私たちにとっての意味。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:4)。
2019/01/27
 八木重吉というクリスチャン詩人の詩に「神を呼ぼう」という詩がある。「赤ん坊はなぜにあんなに泣くんだろう /あん、あん、あん、あん/あん、あん、あん、あん/うるせいな/うるさかないよ/呼んでいるんだよ/神さまを呼んでいるんだよ/みんなも呼びな/神さまを呼びな/あんなにしつこく呼びな」。...

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