カテゴリ:原稿と週報



2024/11/24
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝いたします。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。...
2024/11/17
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちの教会はこどもの声がする教会です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。10月と11月は地域活動と福音というテーマで宣教をしています。先月、西南学院に訪問した際に、ある学生から一冊の本を教えてもらいました。それは稲垣久和の『閉鎖日本を変えるキリスト教 公共神学の提唱」という本でした。さっそく読んでみたのですが、大変興味深い内容でした。私たちの教会が取り組む『こひつじ食堂』や『こひつじひろば』『こひつじカフェ』で日々感じる思いを、この本では『公共神学』として明確に表現していました。今日はこの公共神学を紹介し、神様の愛の豊かさについて、そして私たちがどのようにその愛を広げてゆくべきかについて考えたいと思います。 この本では社会全体を『個人と集団』『自己と他者』という2つの軸で4つに分類しています。縦の軸は他者と自己、公と自己ともいえるでしょう。左上には行政や学校が位置づけられます。公的な集団で、社会全体の利益をもとめる集団です。一方左下は私的な集団です。主に企業や塾などが当てはまるでしょう。私的な集団として自己の利益を追求していきます。右上にいるのは他者や公が強いが、集団ではなく個人を対象にした共同体です。NPOや労働組合がここにあてはまるでしょう。最後の右下は公と反対の自己、そして個人の事柄の領域です。家族や教会がここに当てはまります。教会・信仰とは個人の自己の最も奥深くにあるものでしょう。教会は人の内面を専門としています。 そして最近、教会以外の他の3つのグループは垣根を超えて活動をしています。企業がNPOのようなことをしたり、NPOが企業のようなことをする場面があります。NPOが行政のような働きをすることが増えています。さらにそれぞれは専門を持ちながらも、他のグループと連携・協力をしています。それは単にどちらかが一方的に手伝っているのではなく、相互が協力することで、自分たちの専門分野をより発展させています。様々な形で垣根を超えること、連携することが始まっています。 一方、教会はどうでしょうか。この本の理解によれば教会は自己・個人という枠組みの中に居続けようとしています。他の領域に対して、この世的な事として垣根を越えようとしてきませんでした。他の領域と協力をしようともしませんでした。しかしこの本では、教会ももっと垣根を超えて他の領域に進出したらよいと言っています。その理由は他の領域に取り組むことで、教会の自分たちの専門分野がより発展していくからです。私たちの中心であり、専門であり、最も大切にしていることは内面のことです。でも私たちと違う領域に出会ってゆく、そこに進出することで教会はさらに発展することができると言っています。 私はこひつじ食堂がまさにそのような取り組みに位置づけられると思いました。こども食堂は本来NPOがすることかもしれません。でも私たちの教会がその活動に取り組むことで、他者と関わることで、福音と愛がさらに広がるのです。今まで教会が行かなかった領域で私たちの信仰・価値観が広がってゆくのです。著者は、日本の教会が抱える閉塞感を打開するには、各教会が他の領域に積極的に関わることが大切だと述べています。 そして著者は日本社会にキリスト教がなかなか浸透しないのは、クリスチャンの意識と信仰が内向きで、防御的過ぎることに問題があるのではないか?もっと教会は、他の領域で影響力を発揮してはどうか?と勧めています。 社会と教会は対立するものではありません。またまったく関係ないものでもありません。教会が「この世」と呼ぶ、自分たちと違う領域に様々な接点を持つことにチャレンジをすることで、私たちの福音と愛はますます広がっていくはずです。私たちの地域活動がまさにそれです。私たちはこれまでの教会の概念から、少しはみ出して活動をしています。でもそのことが福音と愛の広がりにつながっているのではないでしょうか?今日はこのように私たちは自分たちの領域をはみ出して、福音と愛を伝えようということ、世を愛そうということを一緒に考えたいと思います。聖書を読みましょう。   今日はマタイ6章38~48節をお読みいただきました。イエス様が私たちに「敵を愛しなさい」と教えた箇所です。現代も古代も「隣人を愛し、敵を憎め」というのは社会の常識でしょうか。しかし聖書は旧約聖書からずっと敵を愛するように教えています。イエス様も新約聖書においてあらためて、そしてさらに発展的させて、敵と思える人にも愛を深めるように、私たちに教えています。それは敵を愛し、迫害するもののために祈りなさいと教えています。 私たちクリスチャンはこの教えの前にどのように生きているでしょうか?今までもしかしてこの世のこと、社会のことを、教会とは別のこととして、敵視してきたかもしれません。この世のことを、私の個人の内面や、自分の信仰とは関係ないものとしてきたかもしれません。でも今日イエス様は、自分と異なる他者を愛するようにと教えています。イエス様は今日、自分と異なる他者を愛するようにと教えています。つまり、私たちとは異なる社会の領域の人々に対しても愛をもって接するよう導いているのです。 もしかすると、反対にこの世の人々からは、私たちの領域以外からは、私たちのことが敵に思えることもあるかもしれません。統一教会をはじめとしたさまざまな宗教が、人の気持ちに付け込んで、お金を巻き上げています。宗教は怖い。平塚バプテスト教会も同じではないかと誤解され、敵視されているかもしれません。でも私たちは、教会のことを誤解している人、教会のことを知らない人を愛したいと願っています。きっとこのままだと、私たちが自分たちの領域から一歩踏み出さなければ、教会がその人と接点を持つことはまず無いでしょう。でも私たちが、私たちの方からその人が暮らす領域に出てゆきます、必要に応えてゆきます。そしてそのようにして出会う時、はじめて教会への誤解が解けたり、私たちの信仰を知ったりするようになるのです。福音と愛が伝わり始まるです。私たちはこの領域に飛び込んでくる人を待っているだけではいけないのです。 イエス様の活動はまさにそのような活動でした。イエス様は旅をしながら福音と愛を広げました。自分から相手を訪ねて歩きました。そして訪ねた先で今日の教えのように、イエス様は、神様はクリスチャンだけに恵みを与えるのではないと教えました。神様はクリスチャンだけを愛しているのではありません。イエス様は、誰にでも太陽が登るように、誰にでも雨が降るように、神様の愛はすべてのひとにあまねく注がれると教えたのです。それが神様の愛です。イエス様はそのように自分たちと違う人に福音を愛を伝えたのです。その教えは一般社会の教えとは大きく違うものでした。しかしその異質な教えが、人々の心に残ったのです。多くの人がその教えに共感をしたのです。 教会の中というのは、いろいろな問題がありながらも、多くの人が互いに愛し合っています。教会の人同士が愛し合うことは当然と言えるでしょう。仲間同士が愛し合うというのは誰でもしていることです。私たちに教えられていることは、教会の仲間だけでなく、他の領域に出て行って、そこでも他者を愛しなさいということです。教会の仲間を愛するように、その外の領域でも、他者を愛しなさいということです。 48節で私たちは完全なものとなるようにと言われています。それはもっと福音と愛が社会、世界に大きく広がるように、完全にゆきわたるようにせよという意味でしょう。私たちは教会の中だけで愛し合うだけではなく、私たちの愛を他の社会の領域にもっと広げてゆくようにと示されています。それこそが伝道と言えるのではないでしょうか。ですから、この世との関わり、私たちの地域への活動は教会にとって二次的な「おまけ」ではありません。私たちの中心である信仰をより広げてゆくために、私たちの自身の信仰をより豊かなものにするために、愛を広げるために必要な活動なのだと思います。 私たちが世に出る時、周囲とは違う独特の価値観を持っていることに、私たち自身が気づくでしょう。この世界では38節のような「目には目を、歯には歯を」という価値観が支持され、広がっています。でも私たちの正典は、それは間違っていると教えています。暴力に暴力で立ち向かうな、必要とする者には必要とする以上のものを与えよ、寄り添うべき人に徹底的に寄り添うようにと教えています。他者、地域の人々がこのような異質な価値観、愛と出会うとき、福音が伝わるのでしょう。私たちはこれからも地域への活動を教会の二次的な活動としてではなく、愛を広げるための活動として取り組んでゆきましょう。 そして、私たち一人一人が毎週置かれている場所のことも考えます。私たち自身も、もともと教会の中だけで生きているのではありません。教会から派遣されて、それぞれの場所で生きています。そこで皆さんはキリスト教の価値観に基づいて生きるでしょう。その時に様々な領域の人に出会うでしょう。そのようにして他者と出会う時に、福音と愛が広がってゆくのです。教会もそれと同じです。 私たちは教会の中で互いに愛し合いましょう。そしてこの愛を教会の外にも、違う領域にも広げてゆきましょう。その時、出会いがありイエス様の愛を伝えてゆくことになるのでしょう。お祈りをいたします。
2024/11/10
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をできること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日も一緒にこどもたちの声を聞きながら礼拝をしましょう。先月と今月は地域活動と福音というテーマで聖書を読んでゆきます。私たちの教会では月2回のこども食堂をしています。経済的に困っているこどもだけではなく、子育てに追われる保護者や、寂しい思いをしている高齢者、誰かと会いたい人、そんな人が集って、みんなで食事をしています。 こども食堂をしていると、様々な団体から寄付や調査の依頼やお知らせが届きます。先日は「NPO法人アトピッコ地球の子ネットワーク」という団体から手紙をもらいました。私も初めてこのような団体の存在を知ったのですが「NPO法人アトピッコ地球の子ネットワーク」はアトピー・アレルギーを持つ人とその家族を支援する団体だそうです。手紙にはその団体からの切実な要望が記されていました。それはこども食堂にも食物アレルギーへの配慮を求める内容でした。こども食堂が必要なこども、こども食堂に行きたいこどもの中には、アレルギーを持つ子供もがいます。しかし多くのこども食堂ではアレルギー対応が不十分です。ある食堂の看板には「アレルギーの方はご遠慮下さい」と書いてあり、中には「アレルギーの方はお断りします」とまで書いてある食堂もあるそうです。こども食堂は小規模な民間団体の運営で限界もあると思うが、必要なこどもがいることを理解し、もう一歩対応してくれないかという要望でした。 そしてその団体はアンケートに答えると、アレルギーフリーの食事セットをプレゼントするとのことでした。それを保管しておいて、アレルギーのこどもが来たら対応をして欲しい。それを使って、こども食堂の看板を「アレルギーの方お断り」ではなく「アレルギーの方には対応する食事を準備している」と書き換えてくれないかとありました。素晴らしい活動だと思い、アンケートに答えました。食材がもうすぐ届くでしょう。 私たちの教会でもこれまで「アレルギー対応はしていません」と毎回の看板やメニューに記載していました。実際に200食を作りながらアレルギーに対応することは難しいものです。でも保管できる別の物を準備しておくという少しの努力で、表記の方法や利用できる人が増えるという事を教えていただきました。 地域の方に平塚バプテスト教会は素晴らしい活動をしているとほめていただく機会が増えました。平塚バプテスト教会に誇らしい思いを持ちます。でもまだこれで完成ではないのです。まだまだ配慮できるのに、配慮していない自分自身に気付かされています。そのことを悔い改めます。食堂にたくさんの人が来ているからこそ、私たちは少数への対応は無理と言ってしまう、言えてしまうのです。私たちはもう一歩、少数者への配慮をしてゆきたい、そう思っています。 少数者を置き去りにしてしまう私たちです。もっとできることがあるはず、それを心にとめながらこれからの活動をしたいと思います。私たちも「アレルギーには対応していません」から「アレルギーの方には別のものが準備できます」と表記を変更しようと思います。もちろん少数者への配慮はこの食堂だけではなく教会全体のこととしても考えたい事柄です。そして少数者への配慮は教会だけではなく、私たちそれぞれの日常生活の中で目を向けてゆきたい事柄です。今日はこのことをきっかけにして、聖書を読みたいと思います。   さて今日はマタイによる福音書3章1~17節をお読みしました。今日の聖書の個所と食物アレルギー、少数者への配慮はどんな関係があるでしょうか。 イエス様がまだ公の活動を始める前、バプテスマのヨハネという人がいました。彼の元には大勢の人が集まっていました。彼は町から離れ荒野に住み、いなごと野蜜をたべて生きていました。5節~7節を見るとユダヤ全土からたくさんの人が集まったとあります。そしてその中にはファリサイ派とサドカイ派の人もたくさんいたとあります。 ファリサイ派とはユダヤ教の多数派です。たくさんの人がファリサイ派の指導の下に生きていました。サドカイ派とはいわゆる貴族のような人々で、当時のエリートです。彼らには誇りがありました。9節「我々の父はアブラハムだ」という誇りです。自分たちは選ばれた者であり、自分達は尊敬されていて、正しい事をしている、すばらしいことをしているという自覚があった人々だったのです。 自分たちに誇りをもった彼らにバプテスマのヨハネは言います。「そんなものは神様からしたら石ころみたいなものだ」。自分の先祖に対する誇り、人の誇りや、選ばれた者という意識、それらは神様にとって本当にたいしたものではないと言ったのです。神様は石ころのようにそれをすぐに創ることができ、すぐに壊せるものだと言ったのです。 ヨハネの元にはバプテスマを希望する人たちが集まりました。ヨハネのバプテスマとはどんな意味だったのでしょうか。諸説ありますが、例えばバプテスマは当時外国人が、ユダヤ教に改宗・入信するときに行われていたと言われます。改宗・入信の儀式だったのです。しかしファリサイ派の人もサドカイ派の人ももちろんすでにユダヤ人です。生粋のユダヤ人です。血筋のよい人です。多数派、エリート、正しい人です。ユダヤ人で高い自己評価を持つ彼らには本来バプテスマはまったく必要ありませんでした。しかし彼らの一部はバプテスマのヨハネの教えに呼応して、本来改宗・入信の儀式であるバプテスマを受けようとして集まってきました。彼らは、自分が正しい、自分が誇らしいという思いを捨て、バプテスマを受けようとしたのです。今まで自分たちが誇ってきたものを捨てる、バプテスマを受けようとしたのです。 そのバプテスマは人や世界を、これまでの正しさや誇りといった高みから見るのではなく、悔い改めや信仰の始まりといった低みから見直そうという運動でした。バプテスマを受け、人と世界を低い場所からもう一度見直す、それがバプテスマのヨハネが勧めた活動でした。それがバプテスマの意味でした。彼らがバプテスマの前に告白した罪とは、外国人や他宗教の人を見下してきた罪だったでしょう。少数派を軽んじたこと、自分が絶対正しいと思ってきた罪だったでしょう。彼らはその罪を告白し、バプテスマを受けて、新しい人生を歩もうとしたのです。高みからではなく、低みから人と世界を見る生き方に方向転換しようとしたのです。 13節以降はイエス様が登場します。イエス様も一部のファリサイ派、サドカイ派のように、このバプテスマのヨハネの運動に賛同したお方でした。イエス様もバプテスマを受けたのです。私たちは驚くかもしれません。イエス様こそ自分を誇るべき神の子だったはずです。14節のヨハネも「私の方が受けるべきだ」と言い、ためらっています。しかしイエス様は悔い改めて低みに行くことは「正しいこと」であり「私たちにふさわしい」のだと言います。誇っても誇りきることのできない神の子イエスが、誇ることを捨てる、そのことから地上での活動をスタートしたのです。そしてその時天が開き、霊が「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」と称えました。誇らずに、低みに身を置く、このような生き方を始めることを霊がほめたたえたのです。 この後のイエス様の活動もこのバプテスマの延長線上にあると言ってもいいでしょう。イエス様はその後の生涯で自分を誇り、その権威によって人々を従わせたのではありませんでした。イエス様は人気が出て多数派になったのではありませんでした。ただ貧しい人、罪人と言われ差別された人、病に苦しむ人を訪ね、目を向け続けてゆきました。その人たちと食事をし、同じ場所で時を過ごしたのです。そしてイエス様はその後、十字架に掛かられてゆきます。バプテスマよりさらに低い場所へと向かわれていったのです。十字架に掛けられた姿はこの地上でもっとも呪われた者の姿でした。イエス様は最後、この地上でもっとも残酷な姿になりはてたのです。 しかし、その十字架こそ、人々の絶望ではなく希望となりました。イエス様は人々の絶望の中に、共にいるという希望となったのです。イエス様は高みから私たちを見下ろして、善悪を判断し、審判を下そうとしているのではありません。イエス様は今も誇るのではなく、低みから、十字架から私たちを見ているのです。共にいるのです。 私たちはイエス様の歩みからどのように生きるかを考えます。私たちの地域活動は人々に支持されています。私たちはそれを誇らしいと思います。多くの方が私たちの活動を支持してくれています。 でも私たちは誇る気持ちを脇に置きましょう。私たちはバプテスマを受け、イエス様に従う者であることを思い出しましょう。どんなにたくさんの人が来ても、人気がでても、低みへ追いやられた人、端に追いやられた人、寂しい思いをしている人を忘れずにこれを続けてゆきましょう。それがバプテスマを受けた者の歩みです。それがイエス様の十字架を支えとする者の歩みです。 私たちはそれぞれの生活においても、同じことが言えるでしょう。みなさんには誇るべきすばらしいものがあります。しかし私たちは誇らずに共に生きてゆきましょう。いつも私たちが置かれた場所で、困っている人、見過ごされている人、さみしい思いをしている人に目を向けてゆきましょう。イエス様のように、その人と共に過ごし、その人たち食べ、歩んでゆきましょう。お祈りをいたします。
2024/11/03
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝、召天者記念礼拝をもてること主に感謝します。お久しぶりの方も共に集うことができてうれしいです。私たちはこどもの声がする教会です。小さいこどもも一緒にこの礼拝をしたいと思っています。声や足音がするかもしれませんが、それも礼拝の一部です。小さな命を感じながら礼拝をしましょう。...
2024/10/13
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。教会にはこどもたちの声が響き、命の喜びにあふれています。今日もこどもたちの命と一緒に礼拝をしましょう。...
2024/10/06
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声が私たちの礼拝の特徴です。今日もこどもたちと一緒に礼拝をしましょう。...
2024/09/29
みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝に招かれたこと、主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。今日もこども達の平和の声を聞きながら、一緒に礼拝をしましょう。8月9月は平和について考えてきました。今日は平和について考えるシリーズの最終回です。これまでイザヤ書を2か月間読み、様々な面から平和について考えてきました。平和についてどんなことをお感じになったでしょうか?今日はイスラエルとパレスチナの戦争と私たちの教会との関係を考えます。そのことを通じて、私たちがどのような信仰を持ち、平和を目指しているのかを考えたいと思います。 イスラエルとパレスチナの戦争について、日本のキリスト教の教会は比較的穏健で、極端にイスラエルを支持する教会は少ないように感じます。しかし世界のキリスト教信者の中には、イスラエル国を積極的に応援する人々が多くいます。いわゆる福音派とか、キリスト教右派と呼ばれたりするグループの中に、イスラエルを積極的に支持する人が多くいます。イスラエル側に立つという立場をはっきりと表明する人がいます。多くの場合、その人たちがイスラエルの側に立つと表明する背景には信仰があります。その信仰は聖書の権威を強調する信仰です。私たちも聖書には権威があると思います。しかし畏敬の念や大切にする気持ちだけではなく、聖書に書いてあることを、その文字通りに受け取っていくことを重視する信仰を持っている人がいます。たとえば聖書の中に、神はイスラエルを祝福している、この土地をユダヤの人々に与えると約束しているという記述があれば、それをそのまま理解します。それはイスラエルによるパレスチナ地域の軍事的支配を支持するという解釈につながってゆきます。このような考えはシオニズムとも呼ばれます。私たちの教会の身の回りでは少ないかもしれませんが、アメリカでは大きな非常に大きな勢力です。 私たちの教会はどうでしょうか。イスラエルと、パレスチナのどちらの側に着くでしょうか?おそらく私たちの聖書理解ではどちらの側にもつかないというのが答えでしょう。戦争をしている、殺し合っている二つの集団がいます。私たちの聖書理解では、神様はどちらか一方の正しいとされる方に、勝利を約束する方ではありません。神様は暴力で物事を決めようとするどちらのグループも誤りとし、そのような暴力を最も嫌われるお方です。私たちもイスラエルとパレスチナの双方が間違っていると考えます。 この問題が複雑なのは、イスラエルにはユダヤ教徒が多く、パレスチナにはイスラム教徒が多いという宗教的な背景もあります。しかしキリスト教の教会は傍観者ではいけません。歴史的にユダヤ教徒を迫害したのはキリスト教国であり、後にこの土地はユダヤ人のものであると誤った約束をしたのもまたキリスト教国でした。キリスト教はまたどちらかを応援することで、またこの問題を複雑にしようとしています。どの宗教、信仰を持つにせよ、人間の愚かさは普遍的です。私たちは宗教を超えて平和を実現することができるのでしょうか。私たちキリスト教の教会はどのようにこの平和に関わることができるでしょうか。私たちはどのように聖書を読むのでしょうか?この問題から考えたいと思います。 私たちには聖書を文字通りではなく、歴史や文脈に応じて解釈することが求められます。そして、強い者ではなく、傷ついた人々や虐げられている人々に目を向けて聖書を読むことが重要です。神様が彼らのそばにいることを感じるでしょう。今日の聖書の個所を一緒にお読みしましょう。   今日はイザヤ書62章1~5節までをお読みいただきました。当時イスラエルの民は戦争に負け、遠い場所に強制移住をさせられていました。シオンとはエルサレムのことです。この62章は、強制移住が終わりようやく故郷に戻ることができた時代の言葉です。強制移住を終え、王様から自分たちの故郷に帰還する許可がでました。人々は希望をもってイスラエルに戻ります。しかし町は戦争で荒廃し、ボロボロになっていました。戦争に振り回された後の、新しい生活への期待と不安の中に届けられた神様の言葉です。 ある立場の人たちは、この個所は神様が現在のイスラエル国を支持していると解釈します。神様はイスラエルのために黙っていないという言葉を、パレスチナとイスラエル国の戦争において、イスラエル側が正しいという根拠にしています。諸国の民はあなたの正しさ知るようになるとは、中東や世界の各国がイスラエル国の方が正しいと認めるようになると解釈をしています。聖書を文字通り解釈することで、神様はイスラエルの側に立つと考え、パレスチナへの軍事的支援が正しいことと解釈されています。 しかし私たちは聖書を現代の国家イスラエル国に結び付けて読むことはありません。この話を、イスラエル国にではなく、私たち人間全体に向けて語られている言葉として受け止めます。そこが大きな解釈の違いでしょう。私たちはこの個所を現在のイスラエル国とは結びつけず、人間全体への語り掛けと理解します。私たちはこの個所をどう理解したら良いでしょうか。私は戦争に疲れ果てた人々の視点から理解したいと思います。これまでに考えてきた神様の平和に照らして理解したいと思っています。この神様の言葉を戦争に傷ついた人への励ましの言葉、希望の言葉として受け取りたい、今日はそのような視点で読みたいと思います。 1節にある「わたし」とは神様の事です。神様は決して口を閉ざさない、決して黙さないお方です。「彼女」とはイスラエル国家だけを指すのではなく、私たち人間全体のことです。神様は一部の人間だけが輝き、他の大勢の人間が暗く沈んで生きる世界を望んではいません。神様はすべての人間が松明のように、明るく光り輝くことを願っておられます。それが叶うまで、黙っていない方なのです。神様は暗さの中にいる人々のために光を、み言葉を注いでくださるお方です。人間から徹底的に光を奪うのは戦争です。人間から光、希望、夢、命を奪ってきたのが戦争です。しかし神様の言葉が戦争に光を照らします。人間同士の戦争で傷ついた人にとって、最も強い心の支えになるのは、神様の言葉です。神様の言葉と光はいつも私たち全員に注ぎます。その神様の言葉は、止まることのない平和の言葉です。神様は平和に向けて沈黙しないお方です。神様はどちらの側にもつかず、すべての人の平和に向けて黙っていないお方です。神様は私たちに平和を語り続けているお方です。 2節には「諸国の民はあなたの正しさを見る」とあります。語られているのは私たちが正義で、向こうが悪だということではありません。語られているのは、神様の正しさを全員が見るようになるということです。人間の決める正しさ、人間の決める平和はいつも不完全です。人間は自分たちの力で正しさと平和を実現することができないのです。今は不条理で、不合理で、不平等で、戦争があります。しかし完全である神様の正しさと、神様の平和の実現は必ず全員に来ます。誰一人漏れることなく来るのです。人間にはどうしても実現できない平和な世界が来るのです。神様が全員に正しさと平和を起こしくださる時を「終末」と呼びます。終末とは世界が破滅する時や悪人に裁きが下る時ではなく、神様の正しさと平和が全地を覆う時です。その時、世界は新しい名前で呼ばれるような、新しい世界が始まります。神の希望が、光が、平和が全地にあまねく満ち溢れる時です。この個所はその終末、完全な平和が、私たちには必ず来る、全員がそれを見る日が必ず来ると言っています。これは平和の約束です。あなたたちには必ず平和がくるということ。私たちはその終末の時に希望を持っています。 3節は傷ついた人々が回復される約束です。「あなた」とは、戦争に傷ついた人々のことです。あなたのような傷ついた人がやがて冠、王冠となるとあります。冠とは、誰が王であるか、誰が一番偉いのかを示すしるしです。つまりこれは戦争で傷ついた人々によって王が立てられるということです。傷ついた人が王を指名してゆくのです。それこそが平和の王の在り方です。戦争の勝利が王冠になるのではありません。王を建てるのは戦争で傷ついた庶民だということです。神様は戦争に傷ついた人たちが平和を求めて新しい王を建てることを望んでいるのです。私たちも文字通り受け取るのではなく、傷ついた人から戦争と、平和と、新しい王を見つめてゆくことが大事です。 4節と5節、人は誰かに捨てられたように思うことがあるかもしれません。でも決して神様の前において、人は見捨てられることがありません。神様は私たちと一緒にいてくださいます。神様が結婚したパートナーのように私たちと共にいてくださるのです。人の結婚にはうまくいかないこともあります。不完全なもので、平和とはいかないものです。しかし神様は違います。神様は私たちとずっと共にいて下さるお方です。 私たちは聖書から平和に生きる方法を聞いてきました。2か月間どのような平和を考えたでしょうか?神様は平和について、黙っていないお方です。神様は口を閉ざさず、平和を語り続けて下さるお方です。私たちは神様の正しさと平和を追い求め続けてゆきましょう。私たちも平和の大切さを語ることを止めないでいましょう。私たちは戦争を見る時、傷ついた人に目を向けましょう。傷ついた人が平和の王を選ぶ世界にしてゆきましょう。私たちの世界には神様が共にいてくださいます。私たちは不完全です。でも神様の平和を求めましょう。これからも諦めずに平和を祈ってゆきましょう。お祈りします。
2024/09/15
わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。 わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。 イザヤ書46章4節...
2024/09/08
谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。 険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。  イザヤ書40章4節 みなさん、おはようございます。今日もこうして共に礼拝できること主に感謝します。私たちはこどもの声がする教会です。こどもたちの声は平和のしるしです。今日もこどもたちの声に包まれながら礼拝をしてゆきましょう。...
2024/09/01
まことに、あなたは弱い者の砦 苦難に遭う貧しい者の砦 イザヤ書25章4節...

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