わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
マルコ8:34
ウクライナの戦争について、私はイエスの非暴力の観点から、ロシアとウクライナの軍事作戦のどちらも支持しません。こうなる前に互いの脅威となる点について平和的な対話がもっと行われる必要があったと思います。しかし世界は、戦争の勝敗で物事を決めるということを選択しました。お互いにとって都合の悪い人間は殺し合い、たくさん殺した方の言うことを聞くという決着を選びました。
私がまずウクライナの戦火のもとで犠牲となっている人々の事を祈ります。銃弾の飛び交う中で生きなければならない、逃げなければならない、こども、女性、高齢者、障がいを持った人、攻撃された原発の近くに住む人、その犠牲とされた人々の痛みを覚え、そのために祈りたいと思います。そして世界が非暴力による抵抗によって、この問題に向き合うことを祈ります。私たちは受難節、イエス・キリストの十字架の痛み、そして世界の隣人の痛みを覚え、今日の聖書を読んでゆきましょう。
31節からは受難予告と言われる箇所です。イエス・キリストはなぜ十字架にかけられるのでしょうか。ここには人間の罪を贖って清め、救うために十字架にかかるのとはありません。権力者から排斥されて、殺される出来事なのだとあります。34節でイエス様は「自分の十字架を背負いなさい」と言っています。イエス様ご自身に十字架を背負わせたのは権力者たちです。それは戦争と同じです。自分の都合の悪い者は殺すという発想です。それが誰かに十字架を背負わせるということです。
私たちはこのように、誰かに十字架を背負わせてはいけません。戦争とは誰かに自分の十字架を背負わせることです。戦争は犠牲を押し付け合い、殺すことです。戦争は自分で十字架を背負うのではなく、誰かに十字架を押し付けることです。
イエス様はペテロに「自分の十字架を背負いなさい」と言います。それは誰かに犠牲を押し付けるのはなく、自分の十字架は自分で背負うということでしょう。そして背負った十字架の痛みをよく知りなさいということです。他者の犠牲となってゆく者の痛みをよく感じなさいということです。プーチン大統領は暴力と犠牲によって世界を支配することができるのかもしれません。しかし多くの人は彼の人間性を疑っています。誰かの痛みと犠牲の上に、自分の都合のよい世界を造る者は、自分の魂を失うのです。
イエス様はこのような暴力の時代に私の平和のことばを恥じるなと言います。今も同じ時代です。イエス・キリストの平和をあきらめず、恥じず、祈りたいと思います。ロシアとウクライナで起きている戦争が一日も早く終わることを祈ります。戦火の中で多くのものを失ったこどもたちを覚えて祈りましょう。私たちはそれぞれ自分の十字架を背負いましょう。お祈りします。
イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
マルコ1章13節
受難節の40日間、転入会やバプテスマの準備を始める方を特に歓迎する期間としたちと思います。私たちにとって仲間ができることは心強いものです。私たちの交わりは相手を変えることが目的ではありません。ただ共にいること、助け合う事、祈りあうことが目的です。私たちは誰かに自分と同じになれということ、自分の一部になれということ、その力が戦争を引き起こすことを知っています。ロシアのウクライナ侵略はまさにそのような戦争でしょう。
私たちはそうではありません。私たちはそれぞれを大切にします。そして私たちはたとえ分かり合えない、自分に都合が悪い、敵と思える、そんな人とも、共に生きる道を探したいのです。み言葉がいつもそれを励ましてくれます。私たちは違っていても共に生きる、そのことを今日、み言葉から聞いてゆきたいと思います。
今日の聖書箇所を見ましょう。マタイ、ルカにはなく、マルコにだけに記載があることがあります。それは40日間「野獣と共にいた」ということです。マルコによれば、イエス様はサタンと野獣をやっつけたのではありません。40日間「野獣と一緒におられた」のです。ここから示されていることはイエス様がこの期間、自分を傷つける、自分の敵、悪者と思える者と一緒に過ごしたということです。
イエス様は15節で「神の国は近づいた」と言っています。「神の国」の反対は「私の国」といえるでしょう。私がすべてを思い通りに支配できる、それが私の国です。私たちはそのような場所を求めているのではありません。イエス様が言う「神の国」とは異なる者が一緒にいることなのです。自分と自分の敵と思える者が、争わず同時に一緒にいることが神の国なのです。
教会は地域活動を通じて、様々な人、自分たちとは違う人と出会っています。でもその出会い自体が大事です。教会は相手を変え、打ち倒すのではありません。多少居心地が悪くとも、共にいるということが私たちの役割、地域協働なのです。
世界も同じです。相手を自分の一部としようとし、都合の悪い者を殺そうとする戦争が起きています。私たちは敵をやっつけるのではない世界を求めています。居心地の悪い隣人とも共に生きること、それが神の国です。
最後に、私たち自身をイエス様に敵対する者、私たち自身を野獣とする読み方もできるでしょう。私たちこそイエス様に従うことができず、傷つけあっている者、私たちこそ野獣なのです。しかし神様はそんな野獣を殺し、罰するのではありません。神様は野獣である私と一緒にいて下さるお方なのです。そしてその場所を神の国としてくださるのです。
今週も私たちはそれぞれの場所へと派遣をされ、それぞれの荒野で、違う他者と出会い、苦労し、共に過ごします。そのようにして、それぞれの場所を神の国としてゆきましょう。神様は必ず共にいて下さいます。お祈りします。
しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、
皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
マルコ10章43~44節
今日の礼拝を、東日本大震災を祈り続ける礼拝とします。今日は特に原発の問題を覚えます。福島第一原発の処理水は、来年から地元の反対を押し切って放出が始まることになりました。福島の漁師の人たちが、これから犠牲となってゆくのでしょうか。廃炉も進みません。核のゴミ、デブリを誰かが引き取らなくてはならないのです。いったいこれから先、どれほどの犠牲が出るのでしょうか。
原発は、事故以前から誰かを犠牲にする仕組みです。私たちはこれ以上、犠牲の上に成り立つ社会を続けてはならないと思います。東日本大震災から11年を迎える時、誰も犠牲にならないことを求めてこの礼拝を持ちたいと思います。
「イエス様が私の罪の身代わりとして十字架にかかり、それにより私の罪は赦され、神の愛を知った」という理解を贖罪論といいます。贖罪論は古くから信仰の中心として受け入れられてきました 。しかし私個人は苦手で、贖いをうまく説明をすることができません。むしろ贖罪論には注意が必要です。強調しすぎると、犠牲を容認することにつながります。イエス様が犠牲になったのだから、人間が誰かの犠牲になることも、しかたがないないと考えることにつながります。
私はイエス様の十字架を1回限りの最後の犠牲として受け止めています。贖いよりも、十字架の上で苦しんだことに目を向けたいのです。十字架の犠牲の痛みを、もうこれ以上必要がないほど大きな犠牲がささげられたと受け止めたいのです。
今日の個所の42節には「支配者」あります。ローマ皇帝は世界の人々を暴力によって支配し、犠牲にしていました。そんな世界の中でイエス様は43節「しかし、あなた方の間ではそうではない」といいます。誰かに犠牲を押し付けて、自分だけの快適さを追いかけてはいけないということです。本当に偉い者とは43節「仕える者」です。「仕える」とは食事を運ぶことに由来します。食べ物を自分だけのものとせず、分かち合ってゆくことが「仕える」です。仕えさせるとは無理やり人に食事を運ばせ、奪い、犠牲にすることです。私たちはイエス様に「仕える者となりなさい」、共に分かち合い、お互いに担ってゆきなさいと言われているのです。
イエス様は「自分は」命を献げると言いました。私がすべての人の犠牲の身代金となる。私の十字架で、すべての犠牲を最後としてほしい「あなたがたの中ではもうそうではない」そう願ったのです。
私たちの周りには、まだ誰かを犠牲にする仕組みがたくさんあります。受難節、私は罪が贖われたかどうかより、十字架の苦しさを覚えます。その痛みを知り、その犠牲をもう二度と起こさない、そのことを受難節に覚えたいのです。
今日、東日本大震災の被災者の方々、原発を押し付けられている人々を忘れず、その苦しみからの解放を求めてともに礼拝を献げてゆきましょう。お祈りいたします。
しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。マルコ4章38節
今月は信教の自由というテーマで宣教をしています。戦時中の大半の教会はおそらく「天皇もキリストも両方信じる」立場でした。戦時下の弾圧の中で、信仰を守ることより、天皇制と折り合いをつけて教会が生き残ることを選びました。例えば礼拝で天皇を賛美する君が代を歌いました。皇居に一礼してから礼拝を始めました。
しかしホーリネスの人々は天皇制に反対しました。「信教の自由」を守ろうとした結果、逮捕され、拷問され、教会は解散となりました。逮捕された牧師の中には長尾三二という人がいました。彼は戦後、この教会の初代牧師となりました。私たちはその歴史の中で今日、信教の自由について考える礼拝を持っています。
私たちはどのような時代でも信教の自由を守る、信仰を守るということを大事にしたいのです。今日の個所から、嵐のような時代の中でも、信仰を守るということ、信教の自由を守ってゆくことを考えたいと思います。
今日の個所は旧約聖書ヨナ書にも似た箇所があります。ヨナ書で人々は嵐の原因と思われたヨナを縛って海に投げ込みました。嵐も、コロナも、戦争も人間の分断を呼び起こします。弟子たちは人間の働きが嵐の前に一切の効果がないことを知って、叫んで言いました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。舟の後ろにいた、イエス様をようやく振り返り、呼びかけたのです。私はこの場面で、イエス様が本当に眠っていたのかということを考えさせられます。私にはなぜか今日、イエス様が私たちをしっかり見ている、まなざしを感じるのです。イエス様は弟子が自分に声をかける時を待っていたのではないでしょうか。
大切なことは、自分自身の手でどうにかしようとすることをやめて、自分を守る手を止めて、神様の前に進み出るということです。危機の時にこそ、自分が弱い者で、神様の助けが必要であることを告白してゆくことです。それをイエス様は舟の後ろでずっと待っていたのです。私たちも荒波にもまれる時、舟の後ろにいるイエス様を振り返るようにと、この物語は語っています。
戦時中の多くのキリストの教会は舟を守ることで精一杯でした。仲間を見捨てながら、なんとか生き残ろうとしました。あのとき教会はイエス様を振り返ったと言えるのでしょうか。きっとそれは不十分だったでしょう。私たちは危機の時、監視し合うのではなく、仲間を大切にしましょう。そして必ずその舟にはイエス様が一緒におられるのです。そして人間の力ではなく、イエス様を信頼してゆく力こそ、嵐を沈めるのだということを、忘れないでいたいのです。振り返りたいのです。
ホーリネスの人々は戦時中、一度は解散をしましたが、戦後再び教会を起こします。平塚教会もその一つであり、その嵐を乗り越えた証しなのではないでしょうか。
私たちは、大きな嵐の時、信教の自由が脅かされる時、イエス様を振り返り、信仰を守ってゆきたいのです。お祈りします。
「信教の自由の礼拝」
しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
マルコ福音書2章4節
今月の宣教のテーマは「信教の自由」です。今日は天皇制について考えます。キリスト教が天皇制に反対するのは政教分離以外に人権の問題があります。皇室には基本的人権がありません。選挙権、職業、表現、言論、結婚、そして信教の自由がありません。人権の観点からもキリスト教は天皇制の廃止を主張しています。
自由と、平等を大切にするのが私たち、バプテストです。とても自由な雰囲気の中で礼拝をしています。この自由な姿を大切にしましょう。自由が守られ、この礼拝から自由が広がってゆくように願って、この自由な礼拝を献げましょう。今日は不自由な人と自由な人が登場する物語です。それを見てゆきたいと思います。
今日登場する4人は常識破りで自由な人です。彼らは自分たちが思い立った時に出発しました。それは自由な一歩、自覚的な信仰の一歩でした。彼らはイエス様の語るみ言葉が何か起こすと期待し、出発しました。彼らの自由さは続きます。屋根に穴をあけ、仲間を吊り下げました。なんと縛られない発想、自由な人なのでしょうか。礼拝中はおしゃべり禁止、そういう堅苦しさを全く持たない4人です。
彼らはかなり自由な人ですが、痛みを持ち、立ち上がれない仲間を神様がきっと自由にしてくれるという信頼を持っていました。4人はそのような自由でがむしゃらな神様への信頼を持っていました。そしてイエス様はこの5人のことを神様への確かな信頼を持っている人だと見たのです。そこに奇跡が起こりました。私も神様にそんなまっすぐな信頼を向けてゆきたいです。彼らは聖書の言葉を聞けば自分たちに何か起こると信じ、神様に信頼し、自由に駆け出し、自由に礼拝をしたのです。
そしてこれこそ信教の自由です。自由に信じ、駆け出し、自由に礼拝する。このようにすべての人に信教の自由があればよいと願います。そしてこの5人の自由さを見ると、本当に天皇制の息苦しさに胸が詰まります。
また私が不自由を感じる時、床に横たわり吊り下げられる人に目が行きます。私も同じです。自分ひとりだけでは礼拝できないのです。誰かに誘われ、導かれ、誰かが待っているからそこに集い、神様の言葉を聞くことができるのです。しかしその弱さの中に、不自由さの中に、神様の力は働くのです。
神様の言葉のあるところには何かが起こります。私たちにも今日、何かが起こるでしょう。なかなか体の動かない私たちに、立ちなさい、行きなさい、自由になりなさいと励ましの言葉がかけられるでしょう。み言葉というのはそのようにして、人にはできない出来事を起こすのです。自由さを起こすのです。
私たちは礼拝できる自由があります。そしてこの礼拝は自由を分かち合う礼拝です。私たちを自由にする礼拝です。この礼拝から、礼拝する自由、信教の自由が日本と世界に、天皇制の廃止へと広がっていくことを願います。お祈りします。