イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マタイ27章46節
私たちはコロナの出来事から何を受け取ったら良いのか、神様へ問います。コロナの時期とは、ずっと神様に問い続けている時期でもあるでしょう。そしてその中に、神様との出会いが隠されている時期ではないでしょうか。問われた「なぜ」ということを大切にしたいのです。今日は聖書から、十字架の絶望と希望の間にあった「なぜ」という問いに、神様との出会いが隠されていたのではないかということを見てゆきたいと思います。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」この十字架の叫びには大きく分けると3つのとらえ方があります。ひとつは絶望と受け取る解釈、もうひとつは希望と受け取る解釈、そして3つ目はその間と受け取る解釈です。
まず叫びを絶望と取るでは、イエス様は確かに神様に「見捨てられた」という絶望を味わっています。神様は私たちと同じ無残な死の苦痛を味わうお方なのです。死は美しい死ばかりではありません。それほどに神様は私たちの死の苦しみを知って下さっていると受け取ることができます。
2つ目の解釈はこの叫びは希望だという、正反対の解釈です。特に遠藤周作の「イエスの生涯」によって広がっています。この叫びは苦難から希望へと変わっていく詩編22篇の冒頭の個所であり、苦難の中でも、神様を堅く信頼し続けた姿ととらえます。しかし詩編の冒頭の言葉を言えば全体を示すという習慣はありません。美しい解釈ですが、可能性は低いと思います
3つ目の解釈はその間ともいえる解釈です。この解釈では叫びの中の「なぜ」という言葉に注目します。イエス様の最期の叫びは、「なぜ」という神様への懸命な問いだったのです。そしてイエス様は疑問をぶつけながらも、神様に呼び掛け続け、神様との関係を諦めてはいません。苦難の中でイエス様は懸命に「なぜ」と神様に向けて問い続けたのです。そしてその叫びの先にこそ神様がおられたのではないでしょうか。誰よりもその叫びをしっかりと聞き取っていたのが神様だったのではないでしょうか。イエス様が「なぜ」と叫ぶ、そのただなかに神様と出会いがあったのではないでしょうか。
私たちも苦難の中で神様に呼びかけ、「なぜ」を問い続けます。その問いの先に、その中に神様がきっとおられるのだと思います。その問いと共に、問いの中にきっと神様がおられます。これからも私たちには様々な問いは続くでしょう。でも必ずそこに、神様との出会いがあるはずです。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、“なぜ”私を見捨てるのですか」今週、その問いの中で、神様とまた出会ってゆきましょう
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」 マタイ20章26~27節
聖書には「仕える」という言葉が出てきます。「仕える」とはどんなことでしょうか。イエス様は仕えられるのではなく、仕える者になるために来たと言います。それは高くあげられるためのではなく、低みに立つために来たのだと言うことがきるでしょう。
その低みの一番下のあるのが十字架です。人々に仕える、最も低い場所に立つという出来事が、十字架という出来事だったのです。私は今日の個所から、救い主イエス様がどこに立とうとするのかを見てゆきたいと思います。
今日の物語でまず登場するのは、ゼベダイの息子たちの母です。彼女は謙虚な様子に見えます。20節、まずひれ伏して登場します。そして自分の子どもを要職につけて欲しいと願います。それを聞いて弟子たちは怒ります。自分も欲しい権力が奪われそうになったからです。
この弟子たちに対してイエス様は自分は王にならないということ、そして自分は仕える者になる、もっとも低い場所に身を置くということを語ります。イエス様は王になることを選ばず、無残に十字架にかかるということを選びました。十字架を選んだということは、自分の身を最も低い場所に置くという選びでした。
そしてイエス様は弟子たちに言います。26~27節「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」高い地位を得たいなら、表面的にでもまずは謙虚な、低姿勢を装いなさいということではありません。
仕えるということの中心は十字架にかかるということです。地上で最も低い場所、十字架にいたのがイエス様です。この後のより大きな栄光を受けるため、偉大になるため、高い地位になるために十字架にかかったのではありません。ただ低みに立つことを選んだのが、十字架だったのです。
そして自分の子を大いなる者にして欲しいと願った、ゼベダイの母は十字架を目撃したました。イエスが偉大になるのではなく、小さく低く死んでいった姿を見たのです。その十字架を目撃した彼女は、人々を従えるのではなく、人々に仕えてゆく人になったのではないかと思います。私たちも今、受難節をいただいています。私たちもゼベダイの母のように十字架を目撃したいのです。
受難節、イエス様の低さを知ります。イエス様が仕える者となったこと知ります。イエス様が他者に仕える方だと知ります。私たちもそのような歩みを始めましょう。来週から集うことができることに感謝します。教会の中でも、そしてそれぞれの場所でも、私たちは互いに仕えあいましょう。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」
マタイ17章4節
一人登山のメリットは自分のペースで歩けることです。一人なら行きたい時に行け、好きなときに立ち止まり、中止できます。反対に一人登山は危険という注意もありました。ケガや遭難は特に危険です。また経験の豊富な人と一緒に登山した方が、上達が早いともありました。私はこれがYouTubeでの礼拝に重なる気がしました。自分の体調を心配せず、少し休んだり、一時停止することもできます。他の教会の礼拝を見ることも可能です。一方YouTube礼拝では私が参加していなくても、誰もそのことはわかりません。経験のある人と一緒の方がよいということは信仰でもまったく同じです。
私たちは神様がまた教会に私たちを集めて下さる日を待ちましょう。神様は必ずまた私たちを招いてくださいます。
今日の聖書をお読みしましょう。イエス様はよく一人登山をしました。それは静かに自分のペースで祈ることができる大切な時でした。今日はみんなで登ります。しかしその山の山頂へはイエス様が連れていってくださるのです。礼拝も同じです。今日それぞれの場所の礼拝も、集うことができる日の礼拝も、そこへはイエス様が連れて来てくれくださるのです。
山頂でペテロは「主よ、私たちがここにいるのは、素晴らしいことです」と言います。まったくそうです!私がではなく「私たちが」とあります。集まって主を共に礼拝することがどれほど素晴らしい事か、今の私たちは本当によくわかります。私たちももし集えたらなんと素晴らしいことでしょう。
ペテロは仮小屋を建てようとしました。しかしその幕屋は必要ありません。神様は一部の人しか行けない場所に留まるのではありません。私たちに触れて、高いところから地上に一緒に降りてきてくださるお方です。
イエス様は私たちと共にその山を下りて下さるお方です。そしてイエス様は山を降りながら復活と十字架について弟子たちに語りかけています。山を下ったのは、私たちと共にいるのだという事と同時に、栄光から十字架への下り坂を意味しています。山頂の栄光は十字架へと変わってゆくのです。
神は人を礼拝に招き、人として共に地上に下り、苦しみ小さくされた人に向けて歩むお方だということがこの物語の中には詰められています。私たちは今日もそれぞれの場所から礼拝をしています。早く集えることを願っています。共にイエス様から礼拝へと招かれ、共に山頂に連れてこられ、共にみ言葉を聞き、「私たちがここにいるのは、すばらしいことです」そう共に言える日を祈りましょう。
わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 マタイによる福音書16章24節
今日私たちは10年前の3月11日に起きた東日本大震災の被災地を覚えて礼拝を持ちます。被災地では今も失われ続けているものがあります。震災からの復興は、ただ津波に強くなる、住宅ができる、人が戻ることだけでは解決になりません。そして原発の問題はほとんど進展がありません。自分の痛みは忘れないように、まだその痛みが続いている人を忘れないでいたいのです。私たちにできる祈りをささげてゆきたいのです。
3月の宣教のテーマは受難としています。今日は、自分の十字架を背負うとは他者の痛みを覚え続け、痛みに連帯をすることだということを考えます。聖書に聞いてゆきましょう。
十字架を背負うとは、一般的には「長く我慢すること」を意味しますが、私たちはそのような意味には使いません。自分の十字架を背負うとは、イエス様が感じた、あの十字架の痛みを私も体験するということです。ではイエス様の十字架の痛みとはどんな痛みでしょうか。
貧しい人、差別を受けている人、汚れていると言われてた人、ゆがんだ構造に搾り取られていく人、イエス様はその人々の為に歩んできました。あるいは干ばつなどの自然災害で生活基盤を失った人たちも含まれていたでしょう。そして苦しむ人々が力をつけてゆく姿は、権力者たちには危険に思えました。だからこそイエス様を十字架に架けると決めたのでした。
イエス様が背負った十字架、それは共に苦痛を味わい、その理不尽に反対するという意味を持ちました。自分の十字架を背負うとは他者の痛みに連帯し、それを取り除こうとしてゆくことと言えるでしょう。
イエス様の苦難の予告を聞いたペテロは「あなただけは生き残ってほしい」と願いました。しかし自分だけが救われる道を選ぶとするならば、そこで人間性が失われます。全世界を手に入れても、もし人間性が失われたら、他者の痛みを見て見ぬふりをするなら、何の得になるのでしょうか。どんなものよりも、その人間性が大事だとイエス様は言っているのです。自分だけが生き残る道、それこそが十字架を背負わない生き方です。
私たちは東日本大震災から10年を迎えます。私たちは自分の十字架を背負って生きることができているでしょうか。他者の十字架を背負うことができているでしょうか。自分の十字架、それは被災地の痛みと伴い、生活の再建を具体的に祈り、働いてゆくことです。私たちが同じ人間として共に痛み、苦しみ、働いてゆくことが、十字架を背負うことです。これからも私たちは被災地のために祈り、働きましょう。私たちの十字架を背負いましょう
「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」サムエル記上18章1節
LGBTQIAを「罪」「罪深い欲望」「人間の堕落」であるとする教会が多くあります。LGBTQIAを歓迎する教会といっても、実は「罪人」として迎え、異性に興味を持つ様に「悔い改める」ことを祈り教会も多くあり注意が必要です。ありのままで積極的に受け止める教会は多くありません。では私たちの教会はどうでしょうか。私たちの教会、信仰においてLGBTQIAは「罪」でしょうか。私個人はまったくこのことを罪だとは思いません。私は神様がLGBTQIAの人々をそのまま愛し、生きよと言っていると信じます。
そもそも罪とは何でしょうか。様々に表現できますがひとつに、罪とは「対等な関係でないこと」と言えると思います。相手に上下関係を押し付けること、自由を奪うこと、偏見と差別をもって命に優劣をつけようとするのが罪といえるでしょう。それぞれの性と命を、自分の命・性と同じように大切な命・性として尊重できないことが罪でしょう。
今日はダビデとヨナタンの物語を読みます。私たちはこれまでこの話を「男の友情」と受け取ってきたかもしれません。しかしもう一度この物語をLGBTQIAの視点で読み直してみたいのです。この物語から同性同士の深い愛情、対等で信頼し合う深い愛情を読み取ってゆきたいのです。
ヨナタンという男性は深い愛情を同性であるダビデに感じました。この二人は本来、戦争で手柄を挙げた羊飼いと、王子という圧倒的な上下関係の中にありました。しかし深い愛情を持ったヨナタンはダビデとの関係をまったく対等に持とうとします。相手に尊敬と敬意を持ち、一人の人間として向き合ったのです。聖書はこの二人がとても親密な関係であったことを描いているとともに、対等な関係であったということも丁寧に描いています。
この二人の男性は深い愛情をもって接していました。同性愛とも十分に解釈できると思います。そしてそれは罪として扱われていません。美しい同性の愛情として聖書には記録されています。
このように、多様な性・愛の在り方が聖書にも記録されています。それは決して罪ではなく、相互の対等な関係として、美しいものとして描かれています。私はこの個所から多様な愛、性の在り方に心がひらかれてゆきます。深い愛情は異性の間だけではなく、同性の間にも同じ様にあるのです。
私たちはすべての命・性と対等に向き合いたいのです。すべての性が平等に生きることができる社会と教会を目指したいのです。私たちの間にある性差別、性的少数者への差別が無くなるように共に祈り、共に礼拝してゆきたい、共に働いてゆきたいと思います。
ふじみキリスト教会でLGBTの学びを行ったきっかけは、教会に来た「キリストの風」集会からのアンケートだった。私はこの学習会の担当を依頼され二つ返事でOKした。引き受けたのはLGBTの友人たちの苦悩を知りながら、何もしてこなかったことへのおわびの気持ちから。LGBTをからかうような青年時代、あるとき「自分はレズビアンなんです」という告白を聞いてはじめて、身近に感じ、真面目なことだと知った。それからLGBTのクリスチャンたちと出会い、礼拝参加自体が決して簡単なことではない事を知った。しかし、知っていながら私は教会で何もしてこなかった。「キリストの風」集会からのアンケートから「私たちも礼拝に参加したい」「信仰の交わりに加わりたい」という切実な願いを感じる。それは同時に「あなたの教会の信仰の交わりに私たちは加われますか」という問いかけ。私自身、そして教会自身が問われている。イエスだったらどうされるか。
28節は人間に対する神の無条件の赦しが語られている。神への冒瀆さえも赦されると。そして29節が続く。「聖霊を冒瀆する」とはこういうこと。聖霊とは神が私たちに働いている働き。それを冒瀆するとは、いま神が働いていることを否定すること。つまり神の赦しや祝福を否定すること。神はどんな人に対しても働いている。神の赦し、祝福は全ての人に与えられている。そのことを否定してはいけない、と。イエスの周りには弟子、そして群衆、当時「罪人」と言われた人々がいる。家族が呼び戻しに来たときの「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」は家族に向かっての言葉ではなくイエスを囲む人々への言葉。当時「罪人」と呼ばれた人々に対してイエスは「あなたがたは神の御心を行う人だ」と語る。つまりイエスは彼らのことを「罪人」とは考えていない。神が働いている人々。神のゆるしの中にいる人々。だからこそ、この人たちに神が働いていることを否定しては絶対にだめだ、という。
イエスの家族が気にしたのは噂話、つまり世間体。律法学者が気にしたのは誰が正しい人で誰が罪人かということ、イエスが気にしたのはこの目の前の人々、群衆。当時の「罪人」は個人的な過ちを犯した人々というよりも職業や身分に近い。徴税人、血を扱う食肉や皮なめしを生業にしている人々、病い、障害を持った人々。それは自分ではかえられないもの、現代のLGBTもそう。私たちが神の前に集えるのはただ、神によってゆるされているから。私たちは何か条件を満たしているから神にゆるされるわけではない。イエス・キリストが「いいよ」「私のもとに来なさい」と言ってくれるから。ただそれだけ。私たちはそんな神のゆるし、なんの条件もない無条件のゆるし、神の愛への感謝から始めるしかない。そしてそこから始めればよい。
そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 ガラテヤ3章28節
今月私たちは男女平等と、性的少数者について聖書に聞いています。社会、教会、家庭で女性が役割を押し付けられたり、奪われることに反対をします。
私たちは特に女性牧師について考える必要があります。米国南部バプテストの2000年に出した信仰告白では「牧師の職は聖書によって資格づけられた通り、男性のみに限定されている。」(Ⅰペテロ5:1~4)とあります。つまり女性は牧師になれないのです。対して日本のバプテストは性に関わらず牧師となることができると考えます。そしてガラテヤ書3章28節に立ち、性差別に反対を表明しています。私たちは聖書があらゆる性の人々が神様の前、社会の中において平等に生き、働くことを宣言していることを見ます。
パウロが手紙を送ったこのガラテヤの教会でも分断と差別が起ころうとしていました。二つに分断した人々へパウロは言いました26節「あなた方は皆、神の子だ」と。全員に対して「全員、神様の子どもです」と呼びかけたのです。しかしガラテヤの教会には自国民の身分の高い男性が、より神様に近いと考えていた人々がいたのでしょうか。外国人の身分の低い女性が神様から一番遠いと考えたのでしょうか。
聖書はどの民族か、どのような身分か、性別がどうかは神の前で一切関係ないと教えています。パウロはゆがめられた関係性に反対をしています。その差別は必要ない、必ず終わると宣言しているのです。
そしてその時にパウロが繰り返し強調しているのは、それがキリスト・イエスによって起こるのだということです。私たちのゆがんだ関係はキリストによって、本来の姿へと回復されてゆくのだと言っているのです。私たちの中には今なお性による差別が多くありますが、その差別は私たちが神様から力をいただいてこそ、乗り越えてゆけるということです。
私たちは神様の前に平等です。教会の中で平等です。そしてそれは教会の中にとどまりません。その平等は社会や家庭の中に広がってゆくのです。そして28節には私たちは一つだということが強調されています。神様の下に、それはもともと一つのものだったということです。私たちは差別を超えて、必ずひとつに戻ることができるということです。
聖書はキリストにある平等が宣言されています。私たちの社会や教会にはまだまだ見えない差別、性差別、格差が存在します。しかし私たちのその差別のただ中に、神の平等宣言が響きわたっています。神様は性の平等を宣言しておられます。ゆがんだ関係が、神様の平等に戻されてゆくように祈り、働いてゆきましょう。
またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。
マタイによる福音書27章55節
私たちは今月ジェンダーとセクシャルマイノリティーについて考え、聖書に聞いてゆこうと思います。神様は性による差別をしないお方、そして性的少数者も大切にするお方ということを聖書から考えます。1回目の今日は、神様は男女の役割を分ける方ではなく、すべての性の人々を招き、主とお互いに、尊重し合い歩むように促しているということを見てゆきます。
教会は男女の役割分担を当たり前のこととして受け止めていました。しかし私たちは男らしさ、女らしさよりも、その人らしさを大切にした方がいいということに気づき始めました。週報で男女分けないことが始まりました。
神様は性を分け隔てせずに、招いておられるお方です。神様は性別で役割を決めるお方ではありません。神様はすべての人が従い、互いに仕えあうことを求めています。今日そのことを聖書からいただきたいのです。
今日の個所では55節「イエスに従って来て世話をしていた」女性たちが記録されています。この個所にある「世話をする」は信仰的に「仕える」という意味を持つ言葉です。しかし女性が主語になる個所で「世話をする」とか「もてなす」という言葉として訳されてしまいました。女性なら食事当番、男性ならイエスに仕えると訳し分けてしまっているのです。そんな無意識な男女差別、男女の役割分担、ジェンダー差別がこの翻訳には表れてしまったのです。この個所は教会に男女の役割分担を改めて考えさせる個所です。
3人はイエス様にガリラヤから最期の十字架まで、初めから終わりまで従った弟子でした。これ以外にも初期の教会にはたくさんの女性のリーダーがいたでしょう。
神様は性の分け隔てなく私たちを招かれるお方です。性別によって役割を分けるのではなく、男女やあらゆる性に向けて、分け隔てなく招きを下さっている方です。すべての人に従いなさい。すべての人に仕えなさいとおっしゃっているお方です。でも時に私たちは男女に分けてしまいがちです。
私たちの教会や社会や生活にもそのような出来事が多く残っているでしょう。社会・教会・生活に性別による格差がなくなるように願います。神様の福音はすべての性の人に与えられ、すべての人が仕えることに招かれています。その主に共に仕えてゆきましょう。
この後、オンラインの主の晩餐の時を持ちます。今日はすべての人がこの主の晩餐に招かれています。共にいただきましょう。そして主イエスが私たちパンを配って、仕えて下さったように、私たちも互いに仕えましょう。
はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 マタイ5章18節
私たちは今月、協力伝道をきっかけに聖書を読んできました。私たち一人一人が愛し合い、助け合うことが必要なように、一つ一つの教会も協力が必要です。平塚バプテスト教会の歴史の中で、もっとも協力伝道の愛を感じたのは、おそらく無牧師の時期でしょう。大切な教会同士の愛が示されています。「愛」とは長い文脈の中から見れば「点」のようなことかもしれません。しかしその「点」はとても大事な「点」で、私たちを支えてきたのです。
そして愛の形は変化し続けるものです。しかしいつも事柄の中心にある「点」、愛に目を向けていたいのです。そして愛の形が変わるように、私たちの協力関係の形も時代によって変わり続けてゆくのです。私たちは様々に形を変えるけれども、イエス様が教えてくれた愛を大事にしてゆきたいのです。神様はどんなに時間が経過しても、どんなに変化を繰り返しても、その小さな「点」である愛を大切にし、残してゆきなさいと語っておられます。
今日の聖書個所の時代、もう旧約聖書はいらないという人がいました。イエス様はもう旧約聖書はいらないというその人々に、18節、旧約聖書は一文字も、一点一画も消え去ることないと教えました。そして旧約聖書は変わらないということと同時に、愛は形を変え続けるとも教えたのです。
続く21節以降を見るとそれがよくわかるでしょう。律法を愛として受け取りなおしておられます。イエス様は「しなさい」「してはならない」中にある「点」のような愛を明らかにしたお方です。そして文章全体をこの「点」のような愛から解釈をし直したお方です。
私たちにはいつも協力伝道という愛に囲まれていました。その「点」を、その愛を大事にしながら、今この時にふさわしい愛の形をもとめてゆきたいのです。教会は一人ではできないことがあります。国外伝道や牧師養成は一つの教会ではできません。そして教会は相互に学びあい、励ましあう仲間です。これからも他の教会と共に歩みましょう。そして私たちは互いに祈り会うように、教会同士のことも互いに祈り、愛し合い歩みましょう。
私たち一人一人も同じです。会って大きな愛を示すことができない時にいます。昔と同じ愛を示すことができない時を迎えています。それでも互いの間にある点のような、小さいけれども確かにある、愛を大事にしましょう。形は変わることがあるかもしれませんが、今できる愛、この時にふさわしい愛を大事にしましょう。
神様は小さな愛を大切にするお方です。互いに祈り、愛し合いましょう。お祈りをいたします。
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼(バプテスマ)を受けるためである。マタイ3章13節
私たちは今月、協力伝道をきっかけに聖書を読んでいます。近年多くの教会で、少子高齢化や財政の縮小などが起こり、これまでの方針の転換が迫られています。さらにコロナ禍もこのような時に起こりました。今、各教会は未来を模索しています。しかしこの問いに答えてゆくためには、自分の教会だけを見ていては答えがでません。各教会が互いに学びあい、祈りあうことで答えが出るはずです。これからの連盟・教会は支援する側とされる側に分かれるのではなく、教会同士の相互関係が大切にされてゆくでしょう。
そして教会自体も助ける側、教える側、救う側だけにいるのではありません。教会は地域の人々とも、助け合い、互いに学びあい、祈り会う相互関係になってゆくでしょう。そしてその時大事にしたいのは、小さいものからよく学ぶということです。神様は私たちを、そのような相互関係に招いてくださるお方です。小さき者との出会いに招いておられるお方です。今日の聖書の個所もそのようなことが語られていると思います。
「人間を取る漁師にしよう」という言葉は信者獲得の合言葉として理解されてきたかもしれません。それはまるで、とる側、取られる側に人を分ける言葉のように聞こえます。しかしこの言葉はイエスの「招き」を表している言葉です。ペテロの歩みが、このイエスの招きによって始まったということです。イエスが一方的にペテロを選んだのです。これが神様の招きです。
そしてペテロは一人でイエスに従ったのではありません。共にイエスの話を聞き、共にイエスから逃げ出し、そして共に十字架を見る仲間が与えられました。そして弟子たちの関係は、誰かが教え、誰かが助けるという一方的な関係ではありませんでした。主にある相互関係がここからスタートしたのです。その関係は共に助け合い、共に学びあい、共に祈り会う関係でした。そのような仲間が主によって与えられたのです。それは私たちも同じです。
イエス様に目を向けましょう。イエス様の活動は福音を宣べ伝えること、そして苦しみと思い煩いを持つ人々に会いにでかける活動でした。これが教会の在り方ではないでしょうか。私たちはイエス様に招かれ従います。そして神様は仲間を与えられます。私たちは様々な苦しみをもった人々に出会いにでかけるのです。そして共にイエス様に出会い、ともに礼拝をするのです。
私たちの連盟も、教会も、一人一人もこのようにありたいと願います。私たちは主イエスに招かれています。私たちには主イエスによって、仲間が与えられています。助け合い、学びあい、祈り会う仲間となりましょう。私たちは福音を聞き、苦しむ人、患いを覚える人に出会いに行きましょう。
イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」 マタイ3章15節
今月私たちは協力伝道という事をきっかけに福音を考えています。私は6年前に大井バプテスト教会から西南学院大学の神学部に入学をするとき、「必ずビックになって帰ってきます」と言って、教会を出たらしいのです。しかし神学校で教えられ、学び、気づいたのは真逆の事でした。学べば学ぶほど、小さい命に目を向ける神様の働きを知るようになりました。ビックになるという目標は、小さくあり続けようという目標に変えられました。そして小さき者として、小さいことに目を向け、小さい者同士として共に歩むという目標に変えられました。それは今でも続けたい目標です。今日の聖書からも、神様は小ささを大事にするお方だということを私は知ります。
今日の聖書個所を見てゆきましょう。様々な地域から多くの人がバプテスマのヨハネの「悔い改めよ」という呼びかけに応え、洗礼を受けていました。おそらく多くの人々が集い、列になっていたでしょう。イエス様もきっとその列に並んでいたのです。他の人と同じように、悔い改める人々の列に並びました。
私はそこに、へりくだる神の姿があると感じます。これは神がどこにいるのかをよく指し示している物語です。神は大きく、強く、勢力を拡大する場所に共にいるのではありません。神様は小さな人間たちが、悔い改めて列に並ぶその場所にいたのです。それは自分の小ささを知り、それを告白する人々の列でした。小さくされた人を大事にしようとする列でした。そしてそのような小さい者に、神の愛が注がれているということ信じる者の列でした。神様はそれを見逃さず、その列に共に並んでくださったのです。そこに共にいて下さる神がいます。
イエス様にとってそれが「正しい」ことでした。自分を大きな者とせず、へりくだり、小さい者、弱い者として人々と共に歩んでゆくことです。それが神様にとっての正しさなのです
今この時、私たちは小さくいたいのです。コロナに振り回される弱い私、神の助けが必要な私を見つけたいのです。ピンチをチャンスに変えるのではなく、ピンチに共にいて下さる神様を見つけたいのです。そして私たちは小さくされている人々にも目を向けたいのです。コロナに振り回される人々を祈りたいのです。私は協力伝道の中で、神学教育の中でそれを教えられ、知りました。
小さき者が小さき者と共に生きる歩みが、多くの人々に起こされていくことを願っています。お祈りましょう。
「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。」
Ⅰコリント11章17節~26節
協力伝道ということを宣教のきっかけにしてゆきたいと思います。このコロナの時、それぞれの教会ではどのように主がこの礼拝・礼典を起こそうとしているのかを探し求めています。そして多くの教会が、私たちもオンライン礼拝、それぞれの場所からの礼拝が、神様の招きだと信じています。そして私たちは、神様がこのオンライン礼拝、それぞれの場所からの礼拝に多くの人を招いてくださっていることも覚えておきたいのです。
私たちは必ず再会できるでしょう。でも会堂に集まりさえすれば、共に礼拝できるのではありません。私たちはどこで礼拝するにしても、互いを意識し、祈り会うからこそ共に礼拝をしていることになるのです。特に今、顔は見えなくとも、共に礼拝している仲間を感じて、この礼拝を頂きたいのです。
今日私たちに示されいる聖書個所20節には「それでは一緒に集まっても、主の晩餐をしたことにならない」とあります。私たちは一緒に集まりさえすれば、豊かな礼拝や礼典ができると本当に思っています。しかし一緒に集まっていても、お互いに無関心に集うなら、それは「共に」ではないのです。
こんなに集まりたい私たちは今、聖書から集まる意味を問われます。もし教会で仲間争いし、無関心であるならば、たとえ会堂に集まってみんなそれにあずかったとしても、真に共に礼拝をしたことにはならないのです。真の意味で共に礼典・礼拝をするということは、互いにいたわり、励ましあう仲間として互いの存在を感じながら礼拝するということです。これは集う礼拝でもオンラインの礼拝でも同じです。それぞれの場所では互いの存在はより感じづらいものです。でも私たちは共に礼拝をしているということ、このことを覚えながら礼拝してゆきたいのです。
今日、この礼拝に神様が私たちみんなを招いてくださり、共に礼拝ができたことに感謝しましょう。神様は私たちとこんな風につながって下さるお方です。そして今多くの人が、画面の前に座り、一緒に礼拝をしています。私たちは離れていても一つです。互いに祈り会い、励ましあう仲間です。
そしてただ単に会堂に集うことが私たちの希望ではありません。次に会堂で集う時、次に会堂で主の晩餐を持つとき、私たちはより深く主イエスを覚え、互いを覚えることができるでしょう。神様は私たちとのようにしてつながっていてくださいます。私たちを礼拝によって互いにつなげて下さいます。私たちは主なる神を覚え礼拝しましょう。そして主にある仲間を覚えこの礼拝をささげましょう。主にあるそれぞれの教会も覚えこの礼拝をささげましょう。お祈りをいたします。
起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデがこの子を探し出して殺そうとしている
マタイ2章13節
今日からまたそれぞれの自宅からの礼拝となりました。会うことができない事はとても残念ですが、また再び集うことができるという希望を忘れずに集いましょう。今月は「協力伝道」というテーマで宣教を行ってゆきたいと思っています。私たちは日本バプテスト連盟に加盟している教会です。自立していると同時に、仲間と協力をしています。協力伝道の大きな柱は国外伝道、牧師養成、無牧教会の支援です。ちょうど今私たちはルワンダの佐々木和之さんのパネル展を開催中です。
ルワンダでは1995年、二つの民族の憎しみから虐殺が起こりました。仲良く暮らしていた人々がある時期から指導者や、マスメディアに扇動され、虐殺が起きたのです。この虐殺では多く子どもが犠牲になりました。この虐殺の原因は、誰の心にもある差別や暴力への誘惑です。しかし、私たちは協力伝道によって、その闇に一筋の光を見ています。それが佐々木和之さんの働きです。佐々木さんは生き残った人々が憎しみを超えて平和の道を歩めると信じて活動しています。そしてそれは現実になってきています。神様は和解の力を与えてくださるお方です。私たちはそれを協力伝道から学んでいるのではないでしょうか。
今日の個所をご一緒に読みしましょう。聖書にも虐殺が描かれます。このヘロデは残虐な王として歴史に名を残しています。彼は自分を脅かす者の命を差別しました。しかし悪者は本当に彼ヘロデだけでしょうか。私は憎しみや憎悪、差別によって人間がどのような行動をとるかをルワンダやコロナから学んでいます。1995年のあの虐殺の時、全員がヘロデだったのです。私たち日本人も同じです。いつも主イエスから目を離さないでいたいのです。
主イエス・キリスト、それはヘロデ王の支配という暗い社会に、虐殺が頻繁に起こる社会に現れた希望でした。そして暴力ではなく、平和を訴えたお方です。憎しみではなく愛を訴えたお方です。復讐ではなく和解を訴えたお方でした。この希望が地上で実現してほしいと願います。虐殺はもう二度と起きてほしくないのです、十字架は一度きりで十分なのです。もう二度と誰も、私たち自身もヘロデになってはいけないと思うのです。
協力伝道は、私たちの弱さと希望を教えてくれます。絶対良くならないと思う関係を、和解させてくれる力がキリストにあると教えてくれます。必ずその和解の日は来る。それがすでにルワンダで始まっています。それを見て、私たちはこの希望を信じたいのです。協力伝道に加わり続けましょう。
あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり、あなたの神の御手の中で王冠となる。 イザヤ62章2節
みなさん、あけましておめでとうございます。今年は不安を抱えながらのスタートです。神様がいるならどうして、こんな禍が起きるのでしょうか。神様は私たちを見捨ててしまったのでしょうか。実は神様の子、イエス・キリストも同じ疑問を持った人でした。「わが神、わが神なぜ私を見捨てになったのですか?」。イエス様はそう問いかけながら、死んでいったのです。私たちも今、イエス・キリストの十字架の叫びがよくわかるかもしれません。
しかし、聖書は語っています。イエス・キリストが一番苦しい十字架の時も、神様はイエス様と一緒にいたということです。神の子が死ぬとき、神様はそれを止めなかったけれども、神は共にいたということを聖書は語っています。旧約聖書の言葉ヘブライ語ではそのことを「インマヌエル」といいます。神はわれわれともにいるという意味です。神はどんな時も最後の最後まで私たちと一緒にいてくれるお方だと聖書は語ります。その希望を胸にいただき、私たちは1年をスタートしたいのです。
実は今日の聖書の物語も再スタートをする人々の物語です。当時イスラエルは戦争で負け、町や神殿はめちゃくちゃにされ、人々は強制的に移住をさせられていました。そしてこのイザヤ書62章の時代では、人々がその強制移住を終えて、故郷に戻ったという場面です。希望を持った再スタートだったでしょうか。でも目の前には見捨てられた町が広がっています。
そんな再スタートを切ろうとする人々に、神様の声が響いたのです。1節にある「わたし」とは神様の事です。神様はどんなときにも私たちに黙らずに語って下さるお方です。2節の「あなた」は神様の事です。神様の正しさを全員が見る、目で見る時が必ず来るということを示しています。3節の「あなた」は、今度は私たちのことです。私たちはやがて王冠となります。王冠とは、誰が一番偉いのかを示すしるしです。4節の「あなた」も私たちのことです。コロナにかかるならば、隔離され、見捨てられたと感じるでしょう。でも決して神様の前において、人は見捨てられることがありません。5節、それは結婚するように神様が共にいてくださるということです。
このように神様は、イスラエルの人々の再スタートに共にいるお方です。そして共にいることは神様の望みであり、喜びであると語っています。私たちも神様が必ず共にいてくださることを信じてこの1年をスタートしたいのです。激動の1年が今日からスタートしました。でも神様が共にいてくださる1年のスタートでもあります。この1年もまた、決して黙らない、決して途絶えない神様のみ言葉を聞きながら、希望を持って共に歩みましょう。
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。マタイによる福音書2章10節~11節
平塚バプテスト教会は佐々木和之さんのパネル展を開催しています。平日も会堂を開放してパネルを展示しています。ぜひご覧ください。佐々木和之さんはアフリカ・ルワンダで和解と平和のために働く、バプテスト教会のメンバーです。アフリカ・ルワンダでは1995年、3カ月で80万人の死者がでる大虐殺事件が起きました。佐々木和之さんはそこで虐殺後の和解と平和構築のための教育をしています。
パネル展で紹介できなかったのはムキザちゃんという名(ルワンダ語で「救い主」の意)の赤ちゃんのことです。この赤ちゃんは二つの対立し、殺しあった民族の間に生まれた子どもです。和解の象徴です。ムキザちゃんの周りを、様々な人が囲んでいます。被害者と加害者、その家族。皆、その子どもの誕生から勇気をもらっています。この赤ちゃんは和解と平和が実現可能なのだと、その小さな命で教えてくれます。今日の個所も小さな命を囲む場面です。この物語を「クリスマスの和解」として読んでゆきたいのです。
今日の聖書の個所を一緒にお読みしましょう。イスラエルから見て東と言えば自分たちを脅かす恐ろしい存在でした。さらにユダヤの人々にとって占星術とは詐欺、ペテンでした。東の方からきた星占いと聞いて、何ひとつよいイメージを持たなかったでしょう。
しかし博士たちは小さな国の小さな家に生まれた子どもを見つけ、拝み、貢物を渡したのです。この一人のこどもをきっかけに、対立の関係が平和の関係に変わります。その子の名はイエス、彼もまた「救い」という意味の名前です。ここでは共に一人の赤ちゃんを囲む喜びがあふれていたのです。彼らはともに子どもを囲み、ともに主イエスを礼拝しました。赤ちゃんを囲む礼拝、小さな命が大切にされる礼拝、主イエスの礼拝が起こったのです。
私たちの礼拝もそんな体験でありたいと思います。私たちの礼拝にも様々な人が集います。でも私たちもこどもを囲み、和解と平和の礼拝をささげたいのです。この子どもたち、そしてなによりも主イエス・キリストを囲んで礼拝する者となりたいのです。
そして私たちも毎週、この礼拝から派遣される者です。私たちはこの次の週を来た道とは別の道を行かされる者です。今までの1週間とは別の態度や別の姿勢、和解と平和の道に派遣される者です。その歩みのために、主イエスは私たちの下に生まれてきてくださったのです。クリスマス、私たちに、アフリカに、世界に、和解と平和が起こるように、祈りましょう。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
マタイによる福音書11章20~21節
今年はいろいろな決断を迫られる1年でした。外出自粛要請、テレワークの要請。強制力のない要請に“それぞれが決断”しました。教会も同じです。礼拝をオンラインにするという、これまでの常識では考えられない決断をしました。これまで教会は、集まることが何よりも大事だと教えてきました。しかし突然、教会には集まらないでくださいと言うようになったのです。今までの常識を超えた決断。私たちはそのような決断を、祈ってしたのです。
コロナ禍の中で、私たちはこれからも決断を迫られてゆくでしょう。私たちはその時々、祈り、最善と思う決断を神様の下でします。そして神様は最後に良いものを私たちに準備してくれているはずと信じます。コロナ禍であっても、そうでなくても人生の中で決断が迫られるときがあります。その時も私たちは、神様に祈って決断をしたいのです。祈って決める、そしてそこに必ず良いものが与えられます。今日、このクリスマスその希望を皆さんと確認したいのです。
今日の聖書の個所をお読みしましょう。今日のヨセフは私たちと同じように難しい決断を迫られています。彼はこの事態を当時の常識に従って「縁を切ろうと決心」しました。しかしある夜、彼に天使が現れ20節のように言うのです。不倫の可能性がある人と結婚し、育ての親となるというのです。彼は大いに悩み、そこで祈ったでしょう。そして彼には常識を超えた、驚くべき決心、決断が与えられたのです。それは聖霊の言うままに、受け入れる、名付けるということでした。彼は迷いながらも祈って決めたのです。
私たちにも日々、何かを決めることが迫られています。私たちも祈って決断したいのです。私たちの都合・希望・常識で決断するのではありません。何が神の示す道なのかを考え、祈って決めたいのです。聖書を読んで、礼拝して決めたいのです。誰かに決めてもらうのは楽だけど、神様の前で自分で決めたいのです。時にそれは常識を超える決断となるでしょう。
でも私たちはその先に必ず良いものが生まれると信じて決断をします。イエス・キリストの誕生がこのヨセフの決断の先にあったように、私たちが迷い、祈り、決心することの先に神様の大きな希望が必ずあるのです。
コロナはしばらく続きます。まだまだ決断を迫られるでしょう。その決心をこれからも祈って決めてゆきましょう。その先に希望があると信じて決心しましょう。イエス・キリストの誕生が待っています。私たちが神様の前でする決断は必ず希望につながっていると信じて歩みだしましょう。
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」マタイ11章3節
転入会の信仰告白の時を持ちました。新しい信仰の友が与えられることに感謝します。実は私も信仰がぐらついている者の一人です。そんな時私も、ここに集うことで励まされることがあります。私の信仰のぐらつきはいったん脇に置いて、共に礼拝する時間を持つとき、何かを一緒にするとき新しい道が開けることがあります。疑いながらでも、共にいる時間を持つということは大事なことかもしれません。
この転入会を本当に歓迎します。そして他にも新たにこの弱き者たちの輪に入って、共に集ってくださる方、励ましあって下さる方を探しています。私たちはコロナで集まる喜び、共にいる喜びを知りました。待降節を一緒に待ちましょう。一緒に祈りながら、共に礼拝に集いながら待ちましょう
私は今日の個所も共に集いその方を待つという歩みを聖書は語っています。バプテスマのヨハネは牢獄に捕らわれ、孤独の中にいます。3節「あなたが待つべき方でしょうか」という問いには疑いがにじみ出ます。牢獄という孤独の中で自分の信じていることが揺らいできてしまったのでしょうか。
どんなに強い信仰を持つ人も、その信仰は揺れるものです。一人ならなおさらです。そしてそれよりさらに強い確信が欲しいと彼は願って弟子たちを送ったのです。これを彼の不信仰の問い、疑いの問いとは思いません。イエスがキリストであるか確認することの何が悪いのでしょうか。信じたいという強い願いが、この問いには含まれています。
イエス・キリストの答えははっきりしません。「姿を見なさい」とだけしか答えません。そしてイエス様は目の見えない人、耳の聞こえない人、死んでしまった人と共にいたのです。それは説明や言葉よりも人々と「共にいる姿」を見なさいということです。救い主であるかということは、苦しみ、悲しみ、痛む人と共にいる姿からそれを信じなさいというのです。
私たちも大事にしたいことです。信仰の説明・説得をします。でもそれだけではなく、私たちが共にいる姿から信じることも幸いなことです。私たち自身が集まることに支えられているように、集まることでイエス様を伝えてゆけたらと思うのです。私たちが共にいる姿、共に礼拝する姿によって伝わる信仰があると思うのです。
もしかしたら私たち一人一人の信仰は葦のように、風に揺られ今にも折れそうかもしれません。しかしその中でも私たちは共にいるという幸いがあります。共にいることで確かな信仰とされてゆくのです。
私たちは待つ季節を頂いています。私たちは共に集えることを喜び、この時を待ちましょう。そこにイエス様への新しい信仰が生まれてくるのです。
『人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。」・・・このように、人々はイエスにつまずいた。』
平塚から総理大臣がでたら多くの人がそれを歓迎するでしょう。平塚はずっと河野一族の地盤です。それでも対抗して立候補する人のことを世間では「泡沫(ほうまつ)候補」と呼びます。とても差別的な呼び方です。負ける選挙に出る人はほとんどいません。もし私が立候補したら、絶対負ける、家族の恥、教会の恥でしょう。間違えなく「泡沫(ほうまつ)候補」です。
しかし今日の個所、実はイエス様もそれによく似た状況だったのではないかと思います。イエス様も泡沫候補だったのではないかと思います。それは神の子はこんな場所には生まれないとみんなが思う場所に生まれたということです。汚い、狭い、小さい場所に、神はいないと思う場所に生まれたということ、今日はそのことを聖書から読んでゆきましょう。
今日の聖書の個所をお読みしましょう。人々はイエス様を誇らしく迎えたのではありませんでした。まさしく「泡沫候補」として迎えます。こんな汚い村から、こんな小さな家から、世界を救う神の子が生まれるわけが無い、イエス様の話を聞いてなおそのように判断したのです。
「しかし」です。「しかし」まさしくここに神様の在り方が現れています。それがキリスト、神の子だったのです。神の子は人々がここに生まれたら誰もが神の子だと信じる、そのような場所、そのような家柄を選んで生まれたのではありません。とても受け入れることができない、場所に受け入れがたい方法で現れたのが神です。それが聖書の神様の選び方なのです。
イエス・キリストとはこのように私たちの常識を超えて現れるお方です。そしてまた時代を超えて、私たちにも現れ、共にあろうとしてくださるお方です。イエス様が生まれ、住まわれる場所、それは小さな私の中です。取るに足らない私に、神様は現れて下さるお方です。
そして神様はこの不完全な私たちをふるさととしてくださいます。神様を私の心にお迎えする準備、それは全くできていません。いつまでたっても狭くて、汚くて、小さい私です。私は神様の前でも泡沫候補です。でも神様は、そんな場所こそを選ばれるお方だと今日の個所は語っています。あなたを招けず、受け入れられず、自分の常識でしか測れない、落選確実の泡沫候補の私にこそ、神様は現れて下さいます。
泡沫候補であるキリストが泡沫候補である私に現れて下さったのです。それが起きる時は本当にうれしいことでしょう。その時こそ、うれしいクリスマスとなるでしょう。共にその時を待ち望みましょう。
今日から教会は「待降節(アドベント)」に入ります。イエス様が天から地上に「降」りて生まれる時を「待」つ季「節」です。しかし今年は本当に待ってばかりの1年だったと感じます。学生は学校の授業開始、修学旅行、就職。結婚式、通院、手術も待て。待て待て待て待て待て待て。待降節、また待つのですか。私たちはもう十分に待ったでしょう。
一方で、待ってくれないものがあることも知りました。子どもの成長、おなかの赤ちゃんの成長、出産、死。コロナよりも大きな力がそこに働き、その時が決まるのです。でも必ず来るその時を待つことが大事なのでしょう。
待たされて気づくことも多くありました。私たちは礼拝の大事さを知りました。心だけではなく身体が集まる喜びを知ったのです。礼拝が教会の中心であることも知りました。私たちは以前に戻ることではなく、以前よりももっと大きな新しい希望を期待して、もうしばらくの間待ちたいのです。
それは希望に向けて祈って待つということです。赤ちゃんの誕生を祈って待つように、病床で死を迎える人を祈りながら送るように、祈ってその時を待ちたいのです。この「待降節」、待つことにあきあきした私たちに、神様はもう一度待つように語っています。待降節もイエス様がクリスマスにもう一度私たちの心に来てくださるように、祈って待つ時です。
今日の個所をお読みしましょう。今日は祈りながら待つことがテーマです。神様は私たちを待たせるお方です。イエス様が再び来られる日は誰にもわかりません。いつ来るかわからない事のたとえとしてノアの箱舟の話が引用されます。人々の普段と変わらない生活に突然、大洪水の禍が起き、初めて自分が決められない時があるということを彼らは知ったのです。
コロナは神が私たちに与えた試練だとは私は思いません。しかし神様の起こすことは、それと同じくらい突然に起こるのです。私たちには予測したり、決めることもできないタイミングで、神様の出来事は起こされるのです。
その中で42節には「目を覚ましていなさい」とあります。イエス様はマタイ26章38節ゲッセマネでも弟子たちに「目を覚ましているように」と言いました。しかし弟子たちは眠ってしまい、再び来られたイエス様はもう一度26章41節「目を覚まして祈っていなさい」と言ったのです。今日の場面とどこか似ています。
イエス様が伝えようとした「目を覚まして待ちなさい」とは、祈って待ちなさいという意味でしょう。イエス様は私たちに、神の時は動かすことはできない、でもそれを祈って待ちなさいと教えられているのです。
私たちもクリスマスの時に、心の中にもう一度イエス様が来て下さるように、祈って待ってみてはどうでしょうか。それが待降節なのではないでしょうか。確かに神様は私たちの下へ来てくださいます。クリスマスは必ず来ます。その時まで私たちは、目覚めて、祈って、待ちたいのです。
私たちの教会には生活困窮者のためのシェルターを持っています(場所は非公開)。今日出会った人をシェルターに泊めるのは、正直言って心配です。しかしそうしなければ、その方は野宿という危険な夜を過ごすことになります。本当は事情をよく聞いてからお泊めしたいのですが、疲れ果てている人に、一から事情を教えて欲しいというのは酷です。利用される方の多くは、安心するのか部屋に入ってすぐに眠ります。翌朝、着る物や食べる物を必要に応じて渡しています。
私たちがこの支援をするのは、困っている人を助けるためです。なぜ人を助けるのか、そこに目的は必要ありません。神様が造った命を守ること、助けることが目的だからです。私たちは礼拝参加などを条件にしていません。私たちは何かと引き換えに支援するではありません。
私がこの支援をするときに大事にしているのは、必ずこの方に神様の力が働いて、道が開けてゆくはずと信じて支援をするということです。多くの人は諦めや疲れを覚えてこの教会を訪ねます。でもその方の中に必ず神様の力が、必ず働くと信頼し、この支援を続けています。
きっと神様を知る方法は、聖書を読むことだけではないでしょう。そのような人との出会い、関係を通じても、神様はご自分の力を私たちにお示しになるのです。私たちはそのような人との出会いを大切にしましょう。
今日の個所にも生活困窮者が登場します。35節、ある人はこの人にできる限りの世話をしました。自らの危険を冒して助けたのです。おそらく支援を受けた人は、心身ともに休息の時間を得て、そこを旅立ちました。そして住居を提供した人は、何の見返りも求めませんでした。
私はこの物語から2つのことが大事だと思います。一つは住居を貸した側はあらゆる見返りを求めていなかったということです。もしかして助けたら、信者になってくれるかもしれないと思って助けたのではないということです。目的は助けることそのものだったのです。それは愛とも言い換えることができるでしょう。目的は愛そのものでした。愛を使って何かをしようとするのではなく、愛そのものが目的でした。
もう一つこの物語で大事なことは、私たちはどのように神様に出会うのかという問題です。私たちは聖書のみ言葉によってのみ神様と出会うわけではなく、困っている人との出会いの中で、神様に出会うのです。
この二つ、見返りを求めない事、神と出会う事は私たちのすべての活動に言えることでしょう。こひつじ食堂、こひつじひろば、サロン虹、炊き出しやバザー。教会にメリットがあるからやるわけではありません。今日の聖書の中の、助けた彼と同じです。ただ神の命のために私たちは働きます
そして私たちは教会の中でこそ愛し合いましょう。痛み悲しみを共に祈りあいましょう。そこで神様との出会いが起こされるでしょう。そして必ず神様がすべての人に力を与えてくださるはずです。
いま日本では少年法の厳罰化が議論されています。未成年の犯罪にも大人と同じ罰を与えようという議論です。少年犯罪が増加・凶悪化しているわけありません。むしろ減少し続け戦後最低を更新しています。罪を犯した未成年はまだ発達段階にある人間です。成長の途中に犯した罪には罰を与えるだけではなく、様々な教育や支援が求められているはずです。人との温かい関わり、私たちの言葉で言い換えるなら「罰」よりも「愛」が必要とされます。
罪を犯す少年に、罰を強化するのではなく、もう一度命の大切さを知り、共に生きることを選びたいと思うのです。だって人は生まれ変われるではないですか。罰せられるのではなく愛されることを知ることがどれほど大きな力になるのか、私たちは知っているではありませんか。
神様は敵と思えるような人さえも愛しなさいといいます。そして誰よりも神様ご自身がそのようなお方です。神様は条件を付けずに人を愛するお方です。そのことをもう一度、今日の聖書個所からいただきます。
そもそも、殴られない様にするには、相手の言うことに従えばよいのです。無言で従えば殴られることはありません。しかし間違っていると思う相手に反対を表明する時、殴られるのです。この個所は、善と悪をしっかりと見極め、殴られるとしても、悪に毅然とした態度をとるように求めているのです。
私たちは殴られ続けても、悪をうやむやにするのではありません。社会から悪をなくすために、毅然と立ちたいのです。イエス様はあらゆる暴力と罪に毅然と立ち続けることを私たちに教えているのです。
しかし聖書の要求はさらに私たちに厳しく迫ってきます。続く44節には「敵を愛しなさい」とあります。私たちは自分や誰かを殴る人を大切にすることができるでしょうか。家族とでさえ、教会の仲間とでさえ、傷つけ合ってしまうことのある私たちです。私たちの隣人だけでも愛するのが大変なのに、どうして敵を愛することなどできるでしょうか。
でも一つだけ確かなことがあります。それは、神様は隣人も敵もどちらも愛するお方だということです。神様が愛する範囲は、もはや隣人であることを超えてしまっているのです。神様は敵か味方か関係なしに、すべての人を愛し、大切にされるお方です。私たちに敵を愛せという以前に、そもそも神様が敵を愛しているお方なのです。神様の愛は一切の条件が無いのです。それが無条件の愛です。45節、太陽が人々を等しく照らすように。
私たち人間はいつも条件付きの愛の中にいます。しかしそれでも私たちは無条件の愛にむけて歩みを始めたいのです。今日神様の愛を頂いて、今週もすべての人を愛する、大切にするその歩みを始めたいのです。特に敵、苦手と思う人をもう一度愛する、大切にするチャレンジを今週したいのです。
イエス様はまさに地上でその歩みをされたお方でした。十字架の上でも、人々を愛し続け、暴力に十字架で向きあわれたお方だったのです。
今日は子ども祝福式を持ちます。大切にする子どもたちの成長は私たちにとってとてもうれしいことです。子どもたちと共に礼拝をしましょう。また今日からマタイ福音書をスタートします。この福音書の特徴は当時のユダヤ人向けに書かれたこと、「インマヌエル(神われわれとともに)」という言葉などが挙げられます。他にも平和と和解、山上の説教で愛が語られています。
今日のキーワードはバプテスマです。バプテスマは天国への切符ではありません。その後罪を犯さなくなるわけではありません。バプテスマを受けても相変わらず罪は犯し続けます。バプテスマを受けても、受けなくても全員が罪人です。しかし、同じ罪人でも違いがあると思います。バプテスマを受けた罪人はその罪を神様の前で素直に認め、悔い改める者となるのです。神様に向き合い、神様の前に自分の小ささを繰り返し知る、それがバプテスマを受けた者の生き方と言えるでしょう。私たちはまだバプテスマを受けていない人にこのバプテスマを受けてほしいと願っています。神様はすべての人をその生き方に招いておられます。
さて今日の個所をお読みしましょう。バプテスマスという習慣はユダヤ教に古くからあり、それは外国人がユダヤ教に入信・改宗する時に行われるものでした。ところがバプテスマのヨハネは、外国人だけではなく、ユダヤ人もみんなバプテスマを受けなさいと言ったのです。
当時ユダヤの人々はアブラハムの血統である自分たちにだけ、神様の助けがあると考え、自負を持っていました。そんな人々に、ヨハネは9節「神はアブラハムなんぞ石ころからでもつくのだ」と言います。自分だけを神様が助けてくれる、そのように、おごりたかぶるのをやめなさいと語ったのです。
すべての人が神様に創造され、すべての人に同じように神様の恵みがあります。神の前に平等で、神様の愛は全員に等しく注ぐのです。しかし、当時のユダヤの人々はこのことを忘れてしまっていました。ヨハネが厳しく非難していることは自分だけが救われると考えることでした。そこに罪があるということです。だからこそ全員がバプテスマを受けるべきだというのです。バプテスマを受けて、その罪を差別を悔い改めて、再スタートしなさいと語っています。それが8節、実を結びなさいということです。
人間は弱い者、もみ殻です。神様はすべての人に生き方を変えるように求めています。悔い改め、具体的に実のある生き方となるように求められています。もみ殻だけど、実を結ぶ生き方を願い、今週を歩みましょう。
この後イエス様もヨハネの洗礼を受けます。自分を誇るのではなく、悔い改め、神に向けて再スタートする、そのバプテスマをイエス様も受け、地上の活動をスタートしたのです。イエス様はバプテスマを受けた者の歩みに加わって下さいます。神は私たちと共にいて下さるのです。今日もこの主の礼拝から1週間をスタートしましょう。
今日は召天者記念礼拝です。私は以前、小さな病院でアルバイトをしていました。そこで感じたのは病院は患者さんが死を迎えた後、できることがほとんどない、無力だということです。病院では死をもってその人との関係が終わるのです。あるときクリスチャンの方が入院されました。病室にはいつも讃美歌が流れ、私も時にはベッドの横で祈ったりしました。その後亡くなりましたが、不思議とその死への無力感が和らいだように感じました。祈りは、死への無力感に対し不思議な力を与えてくれるようです。
この地上の命は死んだら終わりかもしれません。でも私たちの神様の下にある命という関係は、死んでしまったら終わりというものではありません。私たちは生きていても、そしてたとえ死んでしまっても、祈りの関係の中にいます。そして誰よりも神様が私たちの地上の命を愛し、祈って下さっています。たとえ死に、地上の命を終えたとしても、神様の愛は変わりません。永遠に続くのです。今日はそのことを聖書から分かち合いたいと思います。
今日の個所、イエス様の友人が病の中にあります。しかしなんと2日間も訪問を延期したのです。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と。
これは関係は死で終わりではないということを示します。死で終わらずに、その先に神様との関係が続いているということを示しています。死によっても神様との関係は終わらず、神様に愛され続けるのです。
イエス様は死で関係を終わらせず、関係を持とうとするお方です。だからイエス様はラザロが死んだ後に尋ねたのです。イエス様は死を眠りと表現します。死をすべての終わりではなく、眠っている間のように、関係は続くのだと言うます。イエス様はすでに死んだ者にこそ関わる姿によって、死後も神様との関係が続くということを伝えました。
死者に関わり続けるのが神様です。生きている時と変わらぬ愛で、亡くなった方たちを包んでいる、それが神様です。そして今日、私たちもこの同じ愛の内に全員がいます。生きる私たちもその一人です。生前の姿や生死さえ問わず、神様は愛し、会いに来られるお方です。これが無条件の愛です。
聖書を読み進めてゆくと、この後イエス様ご自身が死ぬことになります。でも私たちはイエス様が死んで終わりではなかったということを知っています。イエス様がご自身の十字架をもって、死がすべての終わりではない、神様の愛はずっと続くのだと示したのです。
今日私たちは召天者記念礼拝に集ったのは、この死を忘れないでいるためです。神様の愛は、病の中でも、たとえ死んでしまっても変わらずに続きます。だからこそ私たちも神様に変わらず祈りを続けてゆきたいのです。十字架の死が終わりではなく始まりであったように、私たちも共主イエスの十字架から日々を出発したいのです。
私たちは今月「世界」というテーマで聖書読んでいます。世界を見渡す時、宗教が原因のとなる紛争があります。そして一神教は排他的な宗教だと言われることがあります。実際に私たちには他の宗教を劣った宗教として見下す態度があったかもしれません。
私たちはその態度を変えたいと思います。私たちは自分の神をしっかりと紹介し、そして相手から紹介される神のことをよく聞きたいと思います。そして自分が正しいという前提を一度置いて、他者と対話したいのです。
私たちの神様はこの図のように、低きにいる神です。私たちの神は弱さの中にいる神です。階段を下っていくと会える神です。高みに行こうとすれば、私たちの神とは離れてゆきます。その底辺に十字架があります。
他の宗教の人々と対話する時、大事にしたいことは、階段を下りて対話することです。低みから話し、聞いてゆくことです。見下して聞かないこと、見下して語らない事。低みから証しすること。そこから私たちの対話は始まります。それは私たちがイエス・キリストを模範とするからです。
今日の場面で主人であるイエス様は弟子の中で、自分を最も低い立場に置かれました。イエス様は特別な力をもって人々の上に君臨するのではなく、人々より低い場所に、底辺に立つのが私たちの神様でした。
イエス様が足を洗った弟子の中には様々な人がいました。裏切らない人、信頼できる人の足だけを洗ったのではありません。全員に低くひざまずき、足を洗ったのです。イエス様はそのように全員に、低く立たれたお方です。
低みに立つ神と人という関係以外に、神と人との関係は何もありません。神は低みおられるからこそ、神なのです。神様はどんなときも、私たちより低い場所におられ、私たちの足を洗い、私たちを愛し、愛し抜く、最後の時まで大切にしてくださるお方です。
14~15節では私たちも互いに足を洗いあいなさいとあり、この姿が私たちの模範だと言います。私たちは宗教や立場を超えてどのような人にも向き合い、仕えてゆくことができるのかが問われているのではないでしょうか。低みに立って、どんな人でも愛し、愛し抜く、最後まで大切にし続けることが求められています。そしてその時、私たちは互いの弱さに触れあい、共に神を、十字架のイエス・キリストを見つける仲間となるのでしょう。
私たちには様々な対話があります。異なる宗教との対話が世界で、日常で起こされています。私たちはそれを低みから続けたいのです。今まで昇ってきた階段を下りて、低みにいる十字架のイエスの下で出会いたいのです。
今日は創立記念礼拝です。私はこの教会の10年間を「バプテストらしさ」と表現したいと思います。一番大きな出来事は信仰告白を作ったことです。バプテスト教会は各個教会がそれぞれ信仰告白を持ちます。自分たちは何を信じているのか、それを言葉にすることができたのは、教会の信仰にとって大きな礎です。さらにもう10年前、2000年からの10年は「地域とともに生きる教会」という目標が総会資料には書かれています。
この20年間共通すると思うのは、3つのつながりを大事にしたことです。ひとつ目は信仰告白など神様とのつながり、そして2つ目は祈りや信徒会、修繕など教会の中のつながり、そして3つ目はこども支援やホームレス支援など地域とのつながりです。この3つのつながりを大事にし続けたことがこの20年間だったのではないでしょうか。
私たちは様々なつながりをもつようになりました。そしてその中でも一番強いつながりは神様とのつながりです。それは私たちが一生懸命につながる以上に、神様が私たちにつながってくださいました。それが最も大きな力でした。私たちはこのつながりなしに、どのようなつながりも持てませんでした。今日はこの3つのつながりについて、聖書から聞いてゆきます。
今日の聖書個所、4節が目を止めたい個所です。神様は2つのことを言ってます。一つは私につながっていなさい。もう一つは、私はつながっているということです。神様は私たちに「つながっていなさい」と強く命令をしています。そのとおり私たちは神様になんとかつながりつづけようと歩み続けました。精一杯をささげた70年でした。一方で4節では「つながっていなさい」の後に「つながっている」と続きます。神様は私たちに、神様の側からもつながっているよと言うのです。その力はきっと、私たちからつながろうとする力よりも何倍も強いものでしょう。私たちがどんななに神様から離れようとしても、神様は強く結びついてくださるお方です。
12節を見ましょう。今度は神様と私の関係から、私たちの同士の関係へと話が変わります。愛し合いなさいと命令されるのです。私たちは神様と結びついていればそれで良いというわけではありません。神様に結びついているの者は互いに愛し合うように促されます。神様とのつながりは、他者へのつながりと広がってゆきます。教会員同士、そして地域との結びつきへと促されます。出かけて行って実を結ぶように促されるのです。
私たちの70年がまさにそうでした。神様に結ばれた70年、互いに結びついた70年、出かけて行った70年だったのではないでしょうか。
これからの教会の10年について考えます。私たちはどう神様につながりましょうか、どう神様は私たちにつながってくださるのでしょうか。私たちはどう愛し合うでしょうか。私たちはどこに出かけて行って実を結ぶのでしょうか。ともに考えたいのです。
今月は世界をテーマに宣教をしています。そして今日は収穫感謝の礼拝の時を持ちます。今年度はこの収穫感謝の時を、10月16日の「世界食糧デー」に合わせて、10月第2週としました。特にこのことを覚えて礼拝しましょう。今年はアフリカでバッタが大量発生し、農作物に大きな被害を出し、1日で数万人の食料が消えたそうです。通常でも多くの人が飢え、栄養不足でいるなか、さらに2500万人が飢えに苦しんでいます。
アフリカではもともと20%の人々が栄養不足だと言われていますが、このままでは2030年には今より3割も多くの人が飢えると予測されています。飢餓は特に最も体力のない、子どもに様々な影響を与えます。成長期に必要な栄養が不足することは、一生の体格や健康、教育の機会などに影響します。
教会は毎年バザーの収益の一部を日本飢餓対策機構に寄付をしています。私たちの子ども食堂も身近な食料問題への関わりです。小さくても、私たちができることからをしたいと願っています。聖書には多くの飢餓が描かれていますが。今日はイエス様がどのように食糧問題に向き合うのかを見ます。
今日の聖書の個所、5000人の共食と呼ばれる個所です。イエス様に従う人々は、自分で食べるものを準備できない貧しい人々でした。そんな中子どもが食べ物をささげます。一番食べ物を必要とし、一番弱いはずの子どもがささげるのです。私はこのパンを受け取れることはできません。
しかしイエス様はこのパンを受け取り、感謝し、祈りました。それをみんなと分け始めたのです。5つのパンを5000人で分けることはできません。しかし不思議にも、それは全員の必要を満たすほどに増えたというのです。イエス様は不思議な力の持ち主です。小さな者の、小さな捧げものを受け、それを何倍にも、1000倍にしてくださるお方です。
私たちはあまりに多くの人々の飢えに直面した時、無力で自分一人が何かをしても、ほとんど世界は変わらないと感じてしまいます。でもそうではないと、イエス様はおっしゃっています。小さな私の、小さな捧げものが、イエス様によって、大きなものへと変えられてゆくのです。小さい者の、小さな捧げものが、世界を変えるのです。だから、どんなに私が小さくてもできることから、それに向き合いたいのです。
私たちには今、様々なグローバルな課題を抱えています。そのどれもが私たちにできることはあまりにも小さいのです。でもイエス様はそのスケールに対してあまりにも小さい行動をしっかりと受け止めて下さるお方です。そしてそれを大きくし、解決へと導いてくださるお方なのです。
世界にパンが行き渡ること、私たちが少しでも世界と分かち合うこと、必ず世界は一致できることを覚えて、私たちは歩んでゆきましょう。小さい者の小さな行動を、必ずイエス様は大きなものとして下さいます。私たちは収穫感謝の時、その恵みに感謝し、歩みだしましょう。
本日はコロナの防止の観点から、パンと杯はありませんが、み言葉のみで主の晩餐を行います。主の晩餐はイエス様と一緒にした食事と、一緒に行動した日々を記念するため、思い出し、忘れないようにするために持たれます。本当はパンと杯があった方が良いのですが、今できる形で最大限の方法でイエス様を思い出すという方法をとります。そして主の晩餐は受けて終わりとすることができない礼典です。それを受けると、それを受けてどう生きるか、この1週間をどう生きるかが問われます。
今月、私たちは世界をテーマに聖書を見てゆきます。今日はキリスト教の多くの教会で教派を超えて「世界聖餐日」がもたれます。世界中のキリスト者が主の晩餐によって一致を確認し、互いの信仰を認め合う日です。
このコロナ禍の中で、世界の一致、連帯、愛の行動がより強く求められています。しかしコロナはワクチンナショナリズムの問題を突き付けています。いま世界はワクチンの争奪戦と開発競争のなかにあります。世界のワクチンの三分の二は欧米や先進国だけに使われると言われています。ワクチンについて世界はどう一致と連帯のある行動をとれるでしょうか。今、世界が愛の行動をとることを願います。コロナの時、主の晩餐をするとき、イエス様の愛の行動を思い出します。そして世界が自国優先、自分優先ではなく、一致と連帯、愛の行動をすることを願い、主の晩餐をいただきたいのです。
今日の個所をお読みしましょう。今日もイエス様は非暴力で向き合います。イエス様は38節、私を信じなくても、私の業・行いを見て信じなさいと言います。業とは奇跡だけを指す言葉ではありません。業とはイエス様の人生全体、行動全体、生きざまそのものを指します。
イエス様は行動、生き様、それは今日の個所では暴力に対して非暴力・み言葉で立ちむかうという生き様です。その私の生き様、姿、後ろ姿を見て、信じなさいというのです。ほかにも石に打たれて殺されそうになった女性に対し、イエス様の行動は、弱い立場の側に立つという生き方でした。サマリアの女性、生まれつき目の見えない人、5000人の共食はどれも神様の愛をそのまま生きる、生きざま、愛の行動でした。
私たちはイエス様の生き様、愛の行動を見て信じるようになります。もし、神様のことを信じることができないと思うのなら、ぜひイエス様の生きざま、愛の行動を見てください。そうすればきっと神様のことをわかる、そう今日の個所は語っています。私たちはイエス様の行動を見て、信じます。そしてその愛の行動を思い出すために、この主の晩餐を持ちます。この主の晩餐によって、イエス様の愛の行動を繰り返し思い出すのです。そして私たちも愛の行動へと押し出されるのです。
今日は世界で共に主の晩餐が行われます。私たちもそれにあずかり、愛に生きるものとして歩みましょう。お祈りいたします。
教会と地域の結びつきは様々な形で持たれています。こひつじひろば、バザーやコンサート、クリスマス、ホームレス支援。子ども食堂も早く始めたいと思っています。私たちは地域との一体感のある教会ではないでしょうか。たくさんの方が教会を楽しみにしたり、頼ったりして下さっています。
私たちの一番大事にしているのは礼拝です。しかし地域との結びつきは会員獲得ための手段ではありません。礼拝は私たちの出発点といえるでしょう。神様が私たちと一緒に歩んでくださり、共にいて下さることを確認する礼拝が私たちの出発点です。神様が共にいる、強く私たちと結びついてくださる、一体となってくださる。だからこそ私たちも、誰かとつながろうとすします。神様と私たちの一体感、それが私たちと地域との一体感の出発点です。私たちは礼拝なしに、神様とのつながりを知ることはできません。神様とのつながりを知らずに、私たちは誰かと強くつながることはできません。
今日の礼拝で、神様との一体感を感じて、またそれぞれに派遣をされてゆきましょう。今日の個所、利害関係、利用価値でしか相手を見ることができない人たちにもイエス様はあきらめずに語り続けておられます。25節どんなに響かないと思われる人にも、何度でも語り続ける姿がそこにあります。関わりをやめない、真の関係を作ろうとするイエス様の姿です。
30節「私と父は一つだ」それは不思議な言葉です。神様とイエス様、その二つは、とても不思議な結びつきでつながって、ひとつなのです。そして、イエス様は神様とだけではなく、私たちとも強く結びついてくださるお方です。神様とイエス様が固く結ばれているように、私たちもイエス様と固く結ばれているのです。イエス様を信じる、イエス様の羊となるということは、イエス様とその関係に入ることです。イエス様が絶対に離れないと言ってくださる、その関係の中に私も入るということが信じるということです。信じるとは信頼する、イエス様との関係に信頼するということです。
神様とイエス様は固い関係で結ばれ、ひとつの関係です。そうであるのと同じように、私たちとイエス様も固い関係で結ばれた、ひとつの関係です。そして私たちはイエス様が私たちと強い関係の中にいて下さるからこそ、地域と、社会と、他者と強い関係を作ることができるのです。それが神様にある一体感です。その一体感を多く人とともに感じたいのです。
礼拝は、神様が共にいて下さる、その一体感、神様の側から私たちに強く結びついてくださる一体感、そのことを礼拝でも表したいと思います。そして私たちの一体感を大事にしましょう。
こどもたちとの一体感を礼拝で大事にしたいのです。神様が私たちと強く結びついてくださるように、私たちも子どもたち、教会の仲間たち、地域の人たちと結びついてゆきたいのです。そして子供たち自身にも、神様からの強い結びつき、一体感を感じてほしいのです。
今月は子どもというテーマで聖書に聞いています。ヨハネ福音書にはたとえ話は多くありません。ですからの今日のたとえを味わって読みましょう。
羊飼いの仕事とは何でしょうか。それはまず羊を群れにすることです。羊は弱い動物です。だから羊飼いは羊を群れにさせます。そして羊飼いは群れに餌となる草を食べさせ、獣から羊の群れを守ります。また夜には獣に襲われないように安全な囲いの中に入れます。門では、羊の群れ一匹一匹がケガをしていないか点検します。羊飼いはそうやって群れの一匹一匹を丁寧に見るのです。羊飼いの仕事は集める、導く、守る、食べさせる、けがをしていないか点検することです。
今日のたとえでイエス様は11節でご自分を「私は良い羊飼いだ」といいます。イエス様は羊飼いのように、私たちを集め、守り、食べさせ、けがをしていないか点検します。
この人についていけば、この人に導かれれば、安全だと信頼をするから、多くの羊が従います。もし私の足が遅くても、この羊飼いなら、私を置いていくことがない。その信頼ゆえに、羊は羊飼いの声を聞き分けます。この群れは、ただの群れではなく、羊飼いを信頼する群れです。羊同士も羊飼いに信頼する仲間です。羊と羊飼いとの特別な信頼関係、そして羊同士の信頼関係がこの群れにはあります。
このたとえでイエス様は、私たちのことを羊の群れだと言っています。羊の群れとは教会のことです。私たちはイエス様のもとで、み言葉を聞く群れです。私たちは何が神様のみ言葉かよく聞き分ける群れです。そしてそれぞれがイエス様を信頼する時、私たちの間にも特別な信頼関係が生まれます。それが教会の交わりです。
今日のたとえには羊の門という言葉も出てきます。この信頼できる安心の中に入ることができるのが門です。この門は、信頼と安心にいたる門です。
しかし、良い羊飼いの門だけではなく、偽物の羊飼いもいます。その群れでは、羊は困難な状況になるとすぐに切り捨てられ、置き去りにされてしまいます。厳しい自助を求められます。この群れに安心はありません。
偽りの指導者に導かれる世界は弱肉共食の世界です。弱者、こども、高齢者は切り捨てられ、見放される世界です。だれも他者を助けようとしない世界です。その人たちは声をかければ必ず聞いてくれるでしょう。
さて、こどもというテーマでもみましょう。子羊は群れの中でもっとも大切にされる存在です。ぜひ私たちも名前を呼びあい、傷ついていないか点検しあう羊でいましょう。この場所を子どもたちに信頼と安心を感じてもらえる場所にしたいです。教会の子どもたちだけではなく、多くの子どもたちの名前を覚え、安心してもらいたいのです。きっと子供たちは聞き分けて、信頼してくれるはずです。
みなさん、おはようございます。今日も共に礼拝をささげることができて感謝です。子どもたちも集ってくれています。平塚教会はこどもを大切にする教会です。こどもたちの声を聴きながら、共に礼拝をしてゆきましょう。特に今月は子どもをテーマとしながら宣教をしてゆきたいと思います。
今日の宣教題は「愛に生きる自由」という宣教題ですが、皆さんにとって「自由」とはどんなことでしょうか。たとえば食べ放題、好きなものを好きなだけ食べる自由です。回転寿司もそうでしょうか。家族で行っても、好きなネタを好きなだけ食べることができます。以前オーダーメイドのスーツを作ったことがあります。いろいろなオプションが選択できました。選べるのはスーツの生地や色、シルエットだけではありません。ボタンの色や形、ポケットの傾き方、裏地の色、すべて自分の自由に作ることができます。私たちの生活はなんでも自分で選び、決めることができるように思います。ドラッグストアのシャンプーは種類が多すぎて選ぶことができません。
しかしそれが本当の自由かというと、自由はそんなに安っぽいことではないはずです。本当の自由とは何か、自分は自由であるかを考える時、私たちの内面を見る時、自分はそれほど自由ではないと感じるのです。
私たちには本当はこう生きたい、こんな人間になりたいと思っているのに、なかなかそうなることができない、不自由さがあります。本当はあんなことすべきではなったとわかっているのに、そうしてしまった。本当はもっとこんな言い方をすればよかったのに、あの時すぐに謝っておけばよかったのに、そんなつもりはなかったのに。私たちは自分がすべきと思うことができない不自由な存在です。したいことができない不自由さを生きている存在です。誰も傷つけたくないのに傷つけてしまう、不自由さの中に生きている存在です。シャンプーが選べるのは表面的な自由です。でも人間はその本質で、誰もが不自由さの中に生きています。
クリスチャンはさらに不自由に見えるでしょうか。多くの人から見て、毎週日曜日に教会に来るということは、大きな不自由に見えるでしょう。日曜日に誘われるゴルフ、BBQ、同窓会、家族サービス、休日出勤。みんな「できません」と断って教会に行きます。周りの人は「ああ、キリスト教は、なんて不自由な宗教なんだろう」と見えるでしょう。教会に来る、礼拝に続けて出席するとは不自由の極みではないでしょうか。でも私たちはこの不自由を選び続けています。今日も選びました。
教会に毎週集うこと、それは表面的には不自由に見えます。でも本当の自由が教会にはあるのではないでしょうか。教会は自分がどう生きたいか、どう生きたくないのかを考える場所です。そして神様と仲間から、それを生きる力を頂くことができるのが教会・礼拝です。一番私たちがしたいこと、それは愛に生きるということです。その一番したいことと正面から向き合っている教会・礼拝、それは私たちにとって一番したいことに取り組んでいる自由な時ではないでしょうか。
目先の自由ではなく、本当に私たちがどう愛に生きるかを考える、本当の自由さを求める、本当の自由さがあるのが教会・礼拝ではないでしょうか。キリスト者は不自由に見えますが、本当は最も自由です。しかも教会では、神様の前では何だって祈っていいのです。どれだけ実現不可能と思えることだとしても神様に祈っていいのです。どんなに自分が不足と欠けのある人間であっても、人を愛することができるように、愛に生きるようになりたいと祈ってよいのです。
教会に集うこと、一番したい愛に生きるということの為に集うことの方が、シャンプーを選ぶよりも何倍もしたいこと、何倍も自由な時ではないでしょうか。本当に私たちがしたいことを目指す場所、純粋にそれを目指すことができる場所、自由な場所、それが教会・礼拝ではないでしょうか。だからこそ教会はなるべく自由な場所でありたいと思います。ああこうしなさい、こうすべきだというよりも私たちは愛に生きるために「どうなりたいか?」とか「どうありたいか?」を大事にしたいのです。それを聖書から聞いてゆきたいのです。
私たちは今日も、神様の言葉の中に、とどまるために集まりました。この礼拝に集いました。私たちは「愛」を選びたくても、なかなか選ぶことができないものです。でも今日、私たちが一番欲しい、愛に生きるということができる力、それをこの礼拝で受け取りたい、そう思うのです。それが私たちの一番したいことだからです。
今日の聖書個所を見てゆきましょう。今日の個所では自分たちは自由だという人々が登場します。イエス様はそんな彼らに、本当の自由とは何かを問いかけます。ここではユダヤの人々と出てきますが、律法でがんじがらめの自己中心的な人というような差別的な読み方はしたくありません。
よく読むと、31節「自分を信じたユダヤ人」とあります。この話はイエス様を信じますと言った人、少なくとも一度は信じた人に向けて語っています。つまり信じているのだけれども、何が自由かということが、再びわからなくなってしまっている人に語り掛けているのです。これは私たちのことも含むでしょう。一度はイエス様を信じても、本当の自由が何だったのか、わからなくなってしまう者、私たちです。
ユダヤの人々は自分が自由だと思っていました。奴隷ではないのだから、自分の生き方は自分で決めることができるのだから、自分たちはアブラハムの子孫、解放の歴史を持つ民族なのだと思っていました。
だから自分たちは自由だと感じてきたのです。たしかに彼らは困難の中でも自分たちの自由を守り続けてきました。しかしそれでもイエス様は、あなたたちは不自由だと言います。ユダヤの人々はあなたがたは不自由だと言われて怒りました。そしてもうそれ以上イエス様の言葉を受け入れようとしませんでした。37節むしろ殺そうとするようになったのです。
人々は、自分たちの自由を否定するイエス様を侮辱します。41節「私たちは姦淫の子ではない」とはイエス様の母親のマリアは結婚前に妊娠していたのだという、イエス様の出自を馬鹿にしている発言です。彼らの不自由さというのは、まさしくその言葉に表れています。
一度は信じたはず、神様の恵みを教えてもらったはず、でも目の前の相手を大切にできないのです。愛の関わりを持つことができないのです。そうすべきとわかっていても、出自への差別の言葉がでてきてしまうのです。なんと不自由な姿でしょうか。愛しあいたいと思っていても、口からはののしりの言葉が出てきてしまうのです。思うようにいかない、人間の不自由さを表しています。
そんな人々に44節でイエス様は言います。人は「初めから人殺し」だと、厳しく人の不自由さを指摘しています。旧約聖書のカインとアベルのことを指しているのでしょう。兄弟として力を合わせて歩むはずが、弟を殺してしまったアベル。
人は神の愛、恵みを知りながら、人と人とは共に生きる存在だと知りながら、不自由にもそれができず、殺しあう存在です。したくもない人殺しをしてしまった不自由。殺してはいけないとわかっていても殺してしまった不自由。ともに生きたいと思っていたのに、傷つけてしまった不自由。人間は愛の実践をできない不自由な存在、真理に立っていないのです。
私たちは本当にしたいことをできる、自由を求めます。私たちのしたいこと、すべきことができる自由さを手に入れたいのです。私たちはすべての人を愛することができる自由が、欲しいのです。殺しあうのではなく、愛し合うことをしたいのです。そのためにはイエス様が必要だと挙げていることが今日の最後の個所、47節に示されています。「神に属する者は神の言葉を聞く」という箇所です。
「神に属する者は神の言葉を聞く」というのは、言い換えるならば、神様に属する自由を得るためには、神の言葉を聞くことが大事だということです。表面的な自由ではなく、神に属する自由を得るためには、神様の言葉が必要です。聖書に聞いてゆくことが必要ということです。
私たち人間は自分の力では本当の自由を得ることはできません。自分の力だけではもっともしたい、愛に生きるということができないのです。自分の力だけでは不自由さのなかにとどまらざるを得ません。私たちは自分の、人間の不自由さにまず気づく必要があるでしょう。神のもとにいなければ、神に属さなければ、どれだけ日常を自由に過ごしても、愛に生きることはできない不自由なものであり続けるのです。
私たちは神なしには、他者を傷つけるということから逃れられない、不自由な存在です。私たちは本当の自由を求めます。誰も傷つけず、傷つけられず、共に生きる道、それが一番歩みたい道です。それは神様の導きの中にあります。それを生きる自由さを神様からいただいてゆきたいのです。
こどもというテーマを頂いています。その視点からも考えましょう。どうしても私たちは子どもに、あなたも教会に来なさいと言ってしまうものです。そして教会に来てからは静かにしなさいと言ってしまうのです。
本当は神様からいただく、自由を感じてほしいのに、そう言ってしまうのです。もしかして新しく来た方も不自由を感じているかもしれません。でも私たちは伝えていきたいのは、忘れないでおきたいのは、ここがまず本当の自由を求める場所なんだということです。愛に生きる、その一番したいけど、一番難しいことを、ここでしているのだということです。
それはもちろん、なんでもかんでも自分の思い通りにできるという、安っぽい自由ではありません。愛に生きること、あなたを大切にしたい、誰もあなたを傷つけない、その実現を求める場所です。そのことを忘れないようにしたいのです。
私たちは神様の前に、本当の自由を求めましょう。そして大人も子どもも共に礼拝をしてゆきましょう。お祈りします。
8月は共に平和を覚えてみ言葉を聞いてきました。9月は「こども」をテーマに宣教をしてゆきたいと思います。私は夏休みを頂き、裾野のキャンプ場に行ってきました。キャンプにはいろいろな道具が必要ですが、中でも照明器具、明かりが大事です。キャンプに行くと普段は気づかないこと、私たちの生活が、あふれる光に囲まれているということに気づかされます。星の明かりもそうです。不便な場所、人里離れた場所でこそ、星の明かりは、美しく見えるものです。テント中では、不便さも贅沢に感じます。暗さの中ではかえって光を敏感に感じるようになるものです。私たちは普段、たくさんの明かりに囲まれています。しかしいつもと違う環境になったとき、はじめて光の中にいたことに気づくのです。このことは私たちがいつも神様の恵みに囲まれているということと似ているのではないでしょうか。
今日の聖書個所を読みましょう。実はテントと光が重要なカギです。今日の個所は仮庵祭の最終日の出来事です。出エジプトの際に人々が仮小屋、テントで過ごしたという出来事を忘れないためのお祭りでした。この祭りでは、人々は自分の畑に仮小屋を作り、過ごしたといわれます。キャンプです。
そしてその祭りは、光の祭りでもありました。自分たちを導いてくれたのは、雲の柱、火の柱でした。その火の柱が再現されたのです。エルサレムの神殿の一番高い場所に炎がともされたのです。つまり仮庵祭とは神様の光が苦境にあった自分たちを導いたということを思い出す祭りです。仮小屋で、テントで不便な生活をする中で、光に気づいたことを記念する祭りでした。
聖書にはたびたび光という言葉が使われます。どの箇所でも大切なのは、光は神様から出ているものだということです。私たちが、自分自身で輝く、自家発電しているのではありません。私たちは神様から光を頂いて、光を放つのです。そしてそれに照らされて私たちも光となるのです。この光は普段は気づかないものでしょう。しかし、今いる場所が暗くなれば、暗い場所に行けば気づくものです。不自由さや病や苦しみの中でこそ気づくものです。
そして神様はただの光ではありません。イエス様は世の光です。世の光、それは世のための光、世界全体のための光といえるでしょう。神様は従った人にだけ光をあげる、キリスト教はそんなケチな宗教ではありません。イエス様は世の光です。世界全体をすでに照らしている光なのです。
子供というテーマでも考えます。光の子と闇の子がいるのではありません。すべての子供、すべての人間と被造物が光の子です。大事なのは、その光に照らされていると子供が自分で気づくことです。教会はそれを助ける場所です。私たちが子供を大事にする時に、自分に神様の光が当たっている子供に伝わっていくのではないでしょうか。誰かに大事されたとき、お互いに大事にしあうとき、お互いが光に照らされていることに気づくのではないでしょうか。
こんな問いを受けたら皆さんはどうするでしょうか。たとえばある男があなたの家族を、殺そうとしているとします。あるいは殺されてしまいました。あなたはどうするでしょうか。私も罪人だからあなたを赦しますと言えるでしょうか。それともその男を殺すでしょうか。それとも自分がされたのと同じ様に、復讐としてこの男の家族を殺しに行くでしょうか。
この問いには色々な答えがあると思うのですが、家族を殺されたら、相手の家族を全員殺すという選択をする人はまずいないと思います。その選択をすると、今度は相手の家族がまたあなたを殺しに来るからです。この選択はもっとも不毛で、負のサイクルに陥る選択です。
しかし、それと同じ事が世界で起こっています。戦争です。例えばアフガニスタンの紛争はそのようにしてはじまりました。この戦争は、自分の家族を殺された人が、相手の家族を殺すという構造です。自分の家を壊された人が、相手の家族の家を近所まるごと爆破するという構造です。私たちは暴力ではない力で、平和を実現させたいのです。たとえ暴力を受けたとしても、暴力で返すのではなく、違う方法で平和を実現させたいのです。
今日の聖書個所、イエス様がいるのは、抵抗するすべをなにも持たない女性が、いままさに殺されるようとしている・・・先ほど皆さんに問いかけた質問と同じ場面です。暴力による死を目前としたイエス様はどのような行動をとったでしょうか。イエス様は石を取って投げ返し女性を守ろうとしませんでした。また法律だからしかたがないと、粛々と法が執行されるのを見ていたのでもありません。イエス様は暴力を否定します。たとえ法律にそうあったとしても、誰かの命を守るためでも、暴力を用いることを否定します。
イエス様の行動は非暴力による抵抗です。人々の敵意・憎しみを捨て去らせるという行動をとったのです。石を持って投げようとしていた人々はイエス様の問いかけによって、人はまた必ず立ち返って歩むことができること、そして私たちと共に生きていくことが出来ことに気づいたのです。
イエス様は暴力によってではなく、そして罪をうやむやにすることでもなく、これに立ち向かわれました。イエス様が大事にしたのは、非暴力の力です。非暴力こそ人を変え、動かすことを示したのです。
私たちも世界を、そして日常をそのような視点で見たいのです。世界には暴力によって状況を変えようとすることがたくさん起きています。でもそれに新しい暴力で立ち向かう時、必ず負の連鎖が生まれ、多くの人が死にます。私たちの日常でもそうです。DV、パワハラ、セクハラ、忖度、様々な暴力があります。これに非暴力で抵抗したいのです。
暴力に直面したとき、私たちはどのようにすべきでしょうか。やむを得ず暴力しかないと考えるのは間違えです。必ず非暴力による抵抗が出来るはずです。イエス様と共に非暴力の中で何ができるか共に考えてゆきましょう。
75年前、広島と長崎に核爆弾が投下されました。この核爆弾が戦争終結を早め、多くの人を救ったと考える人がいます。本土決戦になったらより多くの犠牲が生まれたはずであり、原爆がそれを止めたというのです。昭和天皇も原爆は「広島の人には気の毒だが、やむを得なかった」と言っています。
私は原爆投下は必要なかったと理解しています。原爆の目的は戦争を早く終わらせるためではなく、核兵器の威力を世界中に見せつける事で、戦後の国際覇権をアメリカのものとすることでした。もちろん日本はただの被害者ではありません。日本もアジアを徹底的に侮辱しました。それも必要のなかったことです。ただ力を誇示し、支配することが目的でした。
戦争とは、互いが互いの力を見せつけ合う事です。なるべく自分を強く見せるために人を殺す、それが戦争です。日本は戦後この強さを誇示した歴史を反省し憲法を制定しました。そしてその憲法の精神は、私はイエス・キリストの願う平和と重なる部分が多いと思います。
今日の聖書個所を見てゆきましょう。兄弟たちは、みんなの前で圧倒的な力を見せつけたら服従するようになるとイエス様を誘います。それは神様への信仰からの発言ではありません。彼らが頼みにしていたのは神様ではなく、力・パワーです。イエスはそれをきっぱりと断ります。イエス様は、自分の力を見せつけるという事に全く関心がありません。
イエス様が人々にはっきりと見せたものとは、十字架の苦しみの姿です。ここに私たちはなぜイエス様を信じるのかということが隠されています。私たちがイエス様を、神様を信じるのは、どんな奇跡でも起こせるからではありません。私たちが信じるのは、イエス様が苦しい十字架の中に、神様の力が働くと信じたからです。私たちもそれを信じるのです。イエス様はどんなに圧倒的な力に打ち負かされようとも、必ずそこに神様の平和の力が働くと信じたお方です。十字架を通して、私たちもそれを信じるのです。
「祭りには行かない」イエス様は一度はそう言ったはずなのに、やはり神殿に向かいました。その場所は分断と抑圧のある場所です。自分が信じていることを恐ろしくて言えない場所です。イエス様は自分の力を見せつけるためにはどこにも行きません。しかし、抑圧の現場には現れるお方です。イエス様が現われたのは、抑圧の真ん中でした。
イエス様は私たちを具体的な行動へと招いておられます。力を見せつけることによって、軍事力によって世界を動かそうとすることに反対をします。
私たちはイエス・キリストの十字架によって力に対抗したいのです。弱さの中に働く神の力によって、それにむかってゆきたいのです。それが平和を作りだすのではないでしょうか。平和は力を誇示する場所には生まれません。平和は十字架から生まれるのです。共にイエス様からその力をいただいてゆきましょう。
私たちは8月「平和」をテーマに礼拝をしています。今日は東アフリカにあるルワンダ共和国で和解の働きをされている佐々木和之さんの報告「ウブムエ」を元に、聖書から平和を聞いてゆきたいと思います。
1994年ルワンダでは80万人が殺される大虐殺事件がありました。分断と差別は一般市民が殺し合うという虐殺事件を生みました。虐殺が収束した後、ルワンダの社会や地域が元の状態に戻ることは容易ではありません。今もルワンダでは両者がどのように共に生きるかを模索しています。そしてその中で和解と平和のために働いているのが、佐々木和之さんです。
会報「ウブムエ」で報告されているのはウムチョ・ニャンザという虐殺事件の生存被害者である女性たちと加害者を夫に持つ女性たちが共に働く女性協働グループです。コロナ禍の中でも被害者と加害者家族のメンバーは分断を超えて、お金を分かち合い「一緒に働いてきて良かった」と感じたとあります。佐々木さんはこのことを次の様に考察しています。「やがてコロナ禍を生き延びた時に、その方々との関係がより強く愛に満ちたものになっていることを心から願います。」
このことはコロナだけではなく、虐殺の被害者と加害者の関係も含めた言葉でしょう。私たちも困難の後に、関係がより強く愛に満ちたものになってゆくことを求めたいのです。そしてこの会報のタイトル「ウブムエ」はルワンダ語で「一致」「調和」「和」を表す言葉です。私たちにも様々な分断があります。私たちはその隔てを超えて、一致「ウブムエ」をしたいのです。
今日の聖書の個所を見ましょう。今日の個所44節、神様と一致し、ウブムエする事、それは神様が起こすことです。神様が私たちを招き、一致・ウブムエして下さるのです。48節、私たちは主の晩餐を毎月していました。あれを食べると不死身の体になるわけではありません。
56節、これを食べるとイエス様の中にいる、イエス様が中にいる、そんな一致、そう「ウブムエ」を体験します。それを食べると57節、すぐに分断してしまう人間が神様の内に生きるようになり、神様との一致を体験するのです。そしてそれは他者との一致へ広がります。
あのパンを食べるという事、それはイエス様との一致、ウブムエの体験です。その一致を通じて、私たちには互いに一致をしてゆく者とされるのです。分断を超えて、平和を生きる者とされるのです。
イエス様のパンは命のパン、平和のパン、一致のパンです。イエス様は私たちと一致をしてくださる、ウブムエして下さるお方です。だから私たちもお互いに一致ができるはずです。どんなに違い、憎しみ困難、過去があっても、それにまさる希望、一致「ウブムエ」を神様が必ず用意して下さっているのです。イエス様は私たちの壁と分断を壊し、一つにしてくださる。「ウブムエ」させて下さるのです。
聖書のいう平和、それは単に戦争のない状態をいうのではありません。平和とはヘブライ語でシャロームです。シャロームとは丸です。完全な丸が平和の状態です。しかし世界は今、大きく歪んでいます。戦争だけではなく、構造として世界は大きなゆがみを抱えています。格差や差別が世界中に起こり、美しい〇を描くはずの世界は歪みだらけです。
そのような世界でシャロームとは、図のように、高い場所と低い場所が均等になり、きれいな丸になってゆくことです。押し込められ、低くされている場所には十字架があります。イエス様の力は、低くされたその一番下から元に戻そうと働きです。その動き・運動がシャロームです。小さくされた人に神様の力が働くことによって、すべての人々が等しく豊かに生きる事、それが聖書の平和・シャロームです。
日本は80年前、世界のシャローム・平和を大きく壊しました。日本は自分たちの繁栄だけを求めて、アジアに進出・侵略し、大きな憎しみと侮辱と絶望をもたらしました。しかし世界は、日本はまた自国優先主義へと向かおうとしています。
今日の聖書個所を読みましょう。人間のパンへの願い、食べ物への願いはバランスを崩しやすいものです。人々の中には「あの人はパンをくれる」と欲望のまなざしを向ける人がいたのです。自分だけの繁栄や自分だけの欲望を満たすことは平和、シャロームを生み出すことではありません。そのように舟を出す姿は、日本がアジアに侵略戦争として舟を出すのと同じ発想です。誰かを犠牲にして、押し込めてそれを得ようとするとき、自分だけ繁栄をしようとするとき、それは絶対に平和を生みません。そのように食べ物を求める時、繁栄を求める時、そこに起こるのは戦争と貧困と格差と差別です。
私は平和を求めつつ、パンを求めてゆきたいと願うのです。それこそがパンではなくイエス・キリストを探すということではないでしょうか。イエス様は命と食べ物を自分のものにするだけではなく、天からのものとして分かち合いなさいと教えてくれるのです。私たちが求めるもの、それはそのように恵みと感謝を呼び起こす食べ物です。平和の食べ物です。
自分の食べ物を追いかけるのではなく、イエス・キリストの姿を、生き方を追いかけなさい、それが永遠の命に至る道であり、それが平和を作り出すのだというのです。私たちそれぞれ、イエス様から今日、永遠に朽ちないパンを私たちの心にいただきましょう。私たちは世界の平和・シャロームを願ってイエス様のパンを食べましょう。そして永遠の命を頂きましょう。
1990年頃バプテスト連盟全体では500の教会と5万人の信者が目標とされました。教会を作る方法としては「母教会主義」が取られました。平塚教会も90年代この流れの中で1993年6月小田原伝道所を開設します。
限られた資料ですが、そこには開設当初の戸惑いや心配の声が記録として多く残されています。しかし、その中でも平塚教会は伝道所開設へと踏み出しました。しかし小田原伝道所は他の教会組織をした伝道所と違い、自立した組織には至りません。そんな中、牧師が退任することとなります。
2011年には小田原伝道所から平塚教会・バプテスト連盟との関係を解消したいと申し出があり、それは伝道所の意思として尊重されました。
どのような理由で距離感が生まれて来たのかは分かりませんが、両方の教会に課題や痛み、葛藤があったのでしょう。平塚バプテスト教会としては伝道所を成長させ、地域に定着させてゆく目標は達成できませんでした。
しかし私たちの目的、思いが何だったのでしょうか。私たちが小田原伝道所を出した目的、それはその途中で人々と出会う事、そしてイエス様と出会うことではなかったのでしょうか。そして今の私たちの教会も同じく、人数が、数がということ以上に、平塚の地域の人々に、そしてイエス様にどうやって出会うことができたのか、それが問われているのではないでしょうか。
今日の聖書個所を読みましょう。いつからか人々はこの聖書個所の舟とは教会の事だと理解するようになりました。教会は小さな群れとして暗闇に漕ぎ出すのです。しかし湖は荒れ始めます。漕ぎ出した舟はまるで私たち平塚教会の様であり、小田原伝道所のようでしょうか。
そこに不思議にも、イエス様が湖の上を歩いて現われます。でも、もう一つ不思議な事が起こっていることを見逃さないでください。それは21節「舟は目指す目的地についた」ということです。イエス様を受け入れようとしたら、いつの間にか目的地だったのです。
もしかすると、イエス様に出会う時、不思議と私たちもそんな経験をするのかもしれません。イエス様と出会った時、そこが私たちの目的の地だったということです。
この物語で指し示されているのは、「私だ」という言葉です。そうイエス様との出会いを見よということです。私たちの歴史の中にどのようにイエス様との出会いがあったのかを見よとイエス様は言うのです。
私たちの目指す場所、それは目標の達成ではありません。その途中にイエス様との出会うということが目的地なのです。大切なのはその旅の途中で「私だ」というイエス様と出会うことです。出会った場所、そこが本当の目的地になるのです。私たちにはこれからもチャレンジがあります。きっとイエス様との出会いが隠されているはずです。大事にしたいのはイエス様との出会いです。それが私たちの本当の目的地だからです。
70年の歴史の中で幼稚園の閉鎖、それは残念な出来事でした。当時の記録によりますと、1978年12月に初代牧師・長尾三二先生が天に召された後、附属紫苑幼稚園の運営を誰がどのように担っていくのかで混乱が起きています。英才教育の方針を引き継ぐのか、それとも新しい人に依頼してゆくのか。その対立は新入園児の保護者を巻き込んで深まってゆきます。そして結局、幼稚園教諭全員の退職につながります。その分断は、教会にも及びました。長尾先生のご家族が教会を去ることになってしまいました。何とか幼稚園は続きましたが、結局幼稚園は8年後に休園、さらに2年後閉園となりました。平塚教会にはそのような歴史があります。
このような状況でも教会が続いたのは、そこに不思議な力が働いたからでしょう。教会が死んでしまうかもしれない時、神様の息吹が降り注ぎ、教会は残りました。そこにはもちろん牧師や奉仕者の頑張りがありました。しかし何よりも、神様がこの教会に命を与えるという決断により、この教会は続きました。すべての人が、神様の言葉を聞くために、神の子イエス・キリストを信じるために、神様がこの教会を建て続けると決めたのです。
教会の70年の歴史、そこには確かに「無力さ」が刻まれています。そして同時に、そこに確かに神が働き続けたことが刻まれています。栄光だけではない平塚バプテスト教会、でもそこに神様の力が注いだのです。
今日の聖書個所を見ましょう。イエス様は38年間立ち上がることのできない、立ち上がる力のない人を癒したのです。その力強さに皆が驚きました。しかし、イエス様ははっきりと言います。19節後半です。「自分からは何事もできない」と。自分は無力だというのです。
21節、それはまるで、死者に命が与えられるような出来事です。もう終わったと思っていたものが、もう一度息を吹き返す出来事です。24節、それは無力の中で神様の言葉を聞くということです。無力の中で神様の言葉を聞くその時、命が輝き出すのです。無力さは断罪され、切り捨てられ、強い者が生き残るのではありません。弱い者、無力な者こそ、神様の言葉を聞き、命が湧き起こされるのです。25節、無力さの中に神の声が響き渡る時、今がその時です。私たちの無力の中に神様の力が今、与えられるのです。
教会の歴史には無力さがあります。でも、それでも私たちの教会が70年間立ち続けた事、それこそがイエス様が行っている業そのものです。この教会が今日もここに存在することこそが、イエス様の力の証しです。
平塚バプテスト教会は70周年を迎えました。私はこの教会をもっと力強い教会に成長させてゆきましょうとは言いません。これからも私たちは、70年間そうであったように、無力な群れでありましょう。そしてそこに神様の力を求めてゆきましょう。そのような弱い中、無力さを覚える時にこそ、何よりも確かで、真実な神様が豊かに働くのではないでしょうか。
今日より私たちの教会が70年を迎えたという事について、3回に分けて考えてゆきたいと思います。
70周年の節目に教会の資料整理をしています。古い執事会の記録や証し集などに目を通すと70年間で何回もこの教会にはピンチがあったという事を知りました。それと同時に教会がこれまでの70年間、変わらずに語られている事を考えました。その一つは平和という事が言えると思います。
教会は70年間、平和を語り続けました。どの牧師たちも平和を語りました。礼拝で平和を宣べ伝える、それは牧師個人の願いを超えるものです。神様が私たちに平和のためのみ言葉を与え続けて下さったのです。70年間神様は、平和を実現するために、私たちを勇気づけて下さったのです。
しかし一方、私たち人間の決意、平和への決意とは弱いものです。75年前の空襲の夜、どれほど強く平和を願った夜だったでしょうか。しかし今平和の誓いも危機にあります。また教会の内側も70年間平和だったとは言い難いものでした。分裂や閉鎖の危機さえもありました。
このような中で、私たちが平和を求め続けてゆくには、何よりも、神様から励ましが必要です。私たちは神様が70年間、平和を私たちに語り続け、その実現のために勇気と励ましをくださったから、これを続ける事ができたのです。平和は必ず実現します。それが神様の約束だからです。
今日の個所はイエス様の長い話、それも平和のためだったあります。そしてイエス様はもうそれを言葉やたとえによって伝えるのを終えると言います。はっきりと知らせるとは、十字架によって知らせるという事です。
弟子たちは30節「今、分かった」「私は信じます」と言います。しかし、この後の弟子たちはイエス様を見捨てて、散り散りに逃げて行きました。平和をすぐに諦めてしまいました。私たちには決心より神様の力が必要です。
私たちには、私たちの決意に先立つ恵みと導き、神様からの励ましと勇気が必要です。イエス様は言葉だけではなく、十字架によって、私たちにその力を、平和を実現するための力をお与えになるお方です。
十字架とは神様と等しいイエス様が、もっとも平和から遠くされた出来事です。私たちはもう二度と誰も十字架にかけてはいけない、誰も剣を持たない、誰も見棄てない、困難から逃げない、その力を私たちはいただくのです。その十字架から私たちは力をいただき、平和を願い求め続ける者となるのです。決意に先立つ恵み、勇気、励ましを頂くのです。
平塚バプテスト教会も何度も打ちのめされそうになりながらも、神様によって建てられ続けてきました。そして平和を語り続けてきました。それができたのは、ひとりひとりのがんばりに先立つ、十字架のイエス様がいたからです。これからも神様は共にいて下さいます。私たちは平和を求め続け、み言葉に聞き続けましょう。神様からの勇気を求め続けましょう。
今日で12回シリーズの「礼拝は〇〇」というテーマの宣教は最終回です。
私たちの教会では、コロナの期間、主の晩餐を一時中断していました。今日は実に5か月ぶりとなります。私たちは70年間で初めて中断をしました。喪失感はどれほどあったでしょうか。実は私はあまり感じないのです。私は、いえもしかしたら教会も、主の晩餐を不要不急としてきたかもしれません。
初代教会では主の晩餐は、今でいうところの愛餐会・食事会でした。最初はとにかく全員でとる賑やかな食事だったのです。聖書にはイエス様がいろいろな人と食事をした場面が出てきます。関わらない方がいいと言われる罪人や外国人と食事をします。垣根を超えて、分け隔てのない食事すること、それがイエス様の運動でした。そのことを初代教会は忘れずに、みんなで食事をしていました。聖書には様々なイエス様の食事を描いています。主の晩餐は大きく分けて4つの食事のモチーフがあります。罪人との食事、最後の晩餐、復活後の食事、奇跡の食事です。
今日の聖書の個所を見ましょう。当時コリント教会でも主の晩餐、食事が行われていました。しかしそこでは一緒の食事ではなく、金持ちが先に食事をしました。貧しい信徒は金持ちの食べ散らかした、そのあまりものを食べていたのです。パウロがわざわざ手紙で怒っているのはそんな主の晩餐の在り方です。分かち合わずに、先に食べる人たちに、家で食べろと言うのです。
少し先の28節にある「誰でも自分を良く確かめなさい」とはこのことです。確かめるのは、自分だけ良ければいいや、食べてない人がいるかどうかなんて関係ない、えい自分が全部食べちゃえ。そういうことが無いかをよく確かめながら、主の晩餐をしなさいと言うのです。
ですから主の晩餐は自己吟味をして食べるという意味だけにはとどまりまりません。いわば共同体吟味です。私たちがその食事を分かち合う群れになっているか、共同体を点検する、吟味する、そのことがこの食事では求められているのです。互いに仲間割れが起きていないか、配慮しあう、祈りあうことができる共同体か、そのことが吟味される食事なのです。
私たちはこの主の晩餐を礼拝の中で70年間続けてきました。礼拝の中でイエス様とのさまざまな食事を思い出し続けていました。今日もイエス様とのあの食事、それぞれに思いだしながら食べましょう。そしてこれはみんなで一緒にする食事です。私たちの仲間のことも、世界のことも思い出しながら食べましょう。それは礼拝の中で欠かせないものであるはずです。
さて、私たちは礼拝について、3か月ほど共に考え続けてきました。
礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作り、礼拝は歌う、礼拝はこども歓迎、礼拝は平和の集い、礼拝はみ言葉が中心、礼拝は献身、礼拝は派遣、礼拝は続く、そして礼拝は一緒の食事です。
学ぶだけで終わりではなく、日々の新しい礼拝を吟味してゆきましょう。
今日は礼拝から派遣された後も礼拝はそれぞれの生活の中で続いていくのだという事を考えたいと思います。
私たちの派遣される世は厳しい現実の中にあります。私たちはシャロームとは遠い、破れと歪みに満ちた世界に派遣されます。今、最も大きなゆがみとして世界に突きつけられているのは、人種差別でしょう。特にアメリカでは黒人への差別の問題が根深く残っています。5月25日にジョージ・フロイドさんが、警察官に取り押さえられ窒息死した、それをとらえた映像は目に焼き付いています。
『クラスメイトは外国人「課題篇」』という本があります。この本の中の第5章「外国人のこどもの貧困」の舞台は平塚市の子ども食堂です。外国人の親を持つ子供たちの困窮と、それに対する偏見・差別が描かれています。「外国人だから仕方がない」と片付けてしまう、差別と偏見が描かれています。
このような現実世界の中で、イエス様の弟子であり続け、それに立ち向かってゆくためには、ありあまるほどの力が必要でしょう。使いきれない程の恵みが無ければ、弟子として立ち向かうことはできないでしょう。だからこそ今日の礼拝、今日の教会でその恵みをはっきりと受け取って派遣されたいのです。祝福の宣言を受けてこの世へと派遣されてゆきたいのです。私たちは6日間、教会から、礼拝の中から、派遣され続ける者です。そのようにして礼拝は私たちの生活の中で続いていくのです。
今日の聖書個所を見てゆきましょう。イエス様が願っておられること、それは私たちが世から隔絶されることでありません。イエス様が願うのは、汚れたこの世界からの隔絶ではなく、この世界のただなかに生きることです。
イエス様は私たちの役割を祈っています。21節、すべての人をひとつにするという役割です。私たちが派遣されるそれぞれの場所には必ず分断があります。差別や偏見や衝突があります。その分断に和解をもたらし、平和をもたらし、一つにするようにと、私たちは派遣されるというのです。それが私たちの役割、使命です。平和を作るのが使命です。
私たちは派遣されます。祈られて、使命を持たされて、分断へと派遣されます。イエス様の願いは、私たちの派遣された先ある、すべての分断が和解し一つになる事です。すべてが完全に一つになる事です。分断のない連帯をする、差別の無い、助け合う社会・関係になっていくことがイエス様の願いです。そして遣わされた私たちが他者を愛することによって、神様がイエス様を愛したこと、神様が分け隔てなく人々を愛することが伝わるのです。
礼拝は祝祷と派遣で終わります。礼拝とこの世の二つがあるのではありません。世にあって、礼拝を続けている、それが私たちなのです。私たちの1週間、神様を礼拝しながら歩みましょう。奉献の後、祝祷・派遣の時を持ちます。
私たちは礼拝をテーマに宣教をしています。今日は祝祷について考えたいと思います。私たちの教会では次の様に祝祷がされています。
「私達を礼拝に呼び集められた神様。あなたは今、私達をそれぞれの場所へと派遣されます。私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、派遣される私たちと共に、また小さくされた者と共に、全世界のあらゆる命と共に、豊かにありますように。アーメン」
この祝祷、いったい何がされているのでしょうか。祝祷の中でされていることは大きく分けて二つです。ひとつは祝福の宣言、もうひとつは派遣です。この祝祷は第一に神様の祝福を宣言するものです。宣言とは神様の愛が私たちに一方的に注がれる。すでに、そしてこれからも注がれるという宣言です。
さらに祝祷の一番大きな意味は派遣です。礼拝は招きで始まり、派遣で終わるのです。礼拝は招きと派遣の繰り返しです。私たちの礼拝と生活は決して切り離されたものではなく、その往復によって信仰に生きるのです。
さて今日の個所を読みましょう。イエス様は集まるように指示されていました。それは神様の招きです。そして人々はひれ伏しました。「ひれ伏した」は礼拝をするという意味です。イエス様に招かれて礼拝をしていたのです。もちろんその集まりは、熱心に信じる者の集まりであると同時に、信じ切ることが出来ない、疑いや不安を持った人々集まりでした。私たちと同じです。招かれ礼拝する、信仰と疑いをあわせ持つ私たちです。
イエス様が大事になさったのは、弟子になるということです。私たちが求められているのは、どこに派遣されてもイエス様の弟子であり続けることです。私たちが他の誰の弟子にもならないことです。
弟子として歩むとはどんなことでしょうか。私たちは祝祷で「私達は主なる神を愛し、隣人を愛しましょう。主なる神に仕え、隣人に仕えましょう」と言っています。これが弟子として歩むことではないでしょうか。弟子になるとは神を愛し、隣人を愛することです。神に仕え、隣人に仕える事です。
私たちの礼拝はその終わりに、祝祷をします。それは神様の恵みの宣言です。そしてこの地上へもう一度派遣されることを示すのです。派遣した先で、弟子として生きよ。そのように私たちは、神様から送り出されているのです。そして私たちは1週間を弟子として生きるのです。
そして聖書によれば、イエス様は派遣されると同時に、いつでもわたしたちと共にいて下さるお方でもあります。イエス様は私たちを派遣されると同時に、一緒に私たちと歩んでくださるお方、インマヌエルのお方なのです。
神様は招き、派遣し、共にいて下さるお方です。その恵みを頂きましょう。
私たちは礼拝で「献金」をしますが、礼拝のプログラムには「奉献」と表記されています。奉献と献金を比較すると、一番大きな違いは「金」という言葉が入るか入らないかです。献金の方が事柄をよく言い表しており、何がされるのかも明確です。でもそう表記しなかった70年間、きっと何か意味があったのではないでしょうか。おそらくこの言葉を使うのは、私たちの奉献の時、献げているものは、お金だけではないからです。私たちはお金ではなく、何事かを献げているわけです。では一体何を献げているのでしょうか。それは私たちの命、私たちの人生を献げている言えると思います。
私たちは、命は神様のものと考えます。命は自分のもの、人間のものではないと考えます。だから、いらない命は無いのです。人間がどんなにこんな命は無意味だと思っても、神様はすべての命が大切だとおっしゃるお方です。お金も同じ様に考えることができるでしょう。そのお金はたしかに自分のものです。しかしそれも、私たちは神様からいただいたものと考えます。
だから私たちは命もお金も自分のためだけに使うことをしません。神様のためにまずそれを使おうと考えるのです。そして神様からの命と恵みに感謝し、自分のためだけに使うことを諦め、お互いのために使うのです。奉献とは命と恵みに感謝し、お返しすること、分かち合うことなのです。
今日の個所によれば、献げ物は主をおそれる事を学ぶためにあるのだとあります。そしてそれをレビ人、寄留者、孤児、寡婦のために使う様にとあります。献げ物をする目的・動機、それは神様が怖い、恐ろしいからではありません。畏れとは、神様の偉大さを知る事、つまり神様がすべての命を作られたと知ることです。
私たちは神様が命を作られことを学ぶために、献げ物をするのです。そして献げられたものをどのように使ってゆくかも示されています。人々は神様に献げたものを、献げただけではなく、一緒にみんなでそれを分かち合って食べました。献げ物とは神様の元にある分かち合いだったのです。
聖書には特に寄留者、孤児、寡婦と分かち合うの様にとあります。これは現代の貧困にも重なります。献げものは自分たちの信仰を守る事だけではなく、生活に困窮している人々にも具体的に使うものであるということです。
私たちも教会の予算の中からは震災支援募金、社会福祉献金を支出します。自分達の信仰のためだけではなく、生活に困る人と具体的に分かち合っていく、そのことも神様が私たちに示していることです。
献金に痛みが伴います、それは献身の痛みです。そして一番自分を献げられたのはイエス・キリストです。自分の人生を献げ、神に仕えたのがイエス様です。私たちが献金をして痛いと思う時、それはイエス様の十字架の痛みと同じものかもしれません。それは自分だけのためだけに生きるではなく、他者と神様を選び取っていく痛みだからです。
ピカソの絵を始めてみた時、まったく理解できませんでした。その絵を見ても下手な絵にしか見えないのでした。しかしゲルニカという絵との出会いは衝撃的でした。この絵が何を書いたのか、その解説を聞いて、初めて私はその価値を知りました。この絵はゲルニカという街で起こった、ナチス・ドイツの無差別爆撃をモチーフにした絵だというのです。
その解説を手掛かりに、絵を見て想像力を膨らませると、戦争の恐怖や悲しみ、怒りを感じとります。この絵をどのように解釈するかも自由です。そこに正解はありません。しかし私はまったく理解できなかったこの絵を、ほんの小さな解説をきっかけに想像力をもって見るようになりました。それでもここで大事なのは絵の解説ではなく、絵そのものです。
私はこの絵と、絵の解説の関係、聖書と宣教の関係によく似ていると思います。礼拝の中で一番大事なのは、誰かの解説よりもみ言葉そのものなのです。ですから皆さんがみ言葉から受けたイメージ、感じたことや問いを、ぜひ大切にしてください。そのように礼拝を考える時、礼拝の中で一番大事なのは、宣教の時間という事よりも、聖書に直接触れる時、つまり聖書朗読が礼拝の中で一番大事だという事を感じます
当時の礼拝で、聖書朗読の奉仕は最も名誉ある奉仕とされました。教師や旅人など様々な人がその奉仕を任されました。私たちも聖書朗読を当番にしてみてはどうでしょうか。
礼拝で一番長く時間を取るのは宣教ですから、礼拝の中心はこの宣教の時間だと感じることもあるかもしれません。しかし宣教とは「み言葉の僕」です。礼拝は聖書勉強会ではありません。もちろん聖書の言葉を理解すること、納得し、自分のものとすることもとても大事なことです。
今日の聖書の個所を聞きましょう。イエス様は今日の個所で、聖書朗読をされています。会衆もイエス様が聖書を読んだのを、かたずをのんで見守りました。私たちよりもっと集中して聞いたでしょう。
み言葉、聖書朗読が礼拝の中心です。では宣教とは一体何でしょうか。何を指し示すものなのでしょうか。ここでイエス様はみ言葉の実現を指し示しています。イエス様が聖書朗読の後に持たれた宣教、その役割は今日のみ言葉がすでに私たちの中に実現をしているということ、あるいはもうすぐ実現するという事、そのことを確認するということがイエス様の宣教でした。
私たちもそのような宣教の時を持ちましょう。今日私たちには、一緒に礼拝することが実現したのです。捕らわれていた人が解放されたように、自宅に捕らわれていた私たちは解放されたのです。それが今日私たちの礼拝で実現したことです。まだ集うことが出来ない方にもきっとそれが起こります。
今日私たちはこの礼拝の中で、このみ言葉を中心としましょう。そしてこの宣教の時、それぞれにみ言葉のイメージを頂いてゆきましょう。
「平和の挨拶」は2004年4月から始まっています。今日は「平和の挨拶」は、礼拝の中で互いの存在や平和を確認し合うためにあるのだということ、そして神様が共にいて下さることを互いに確認するためにあるのだということを見てゆきたいと思います。
礼拝の中で挨拶するのは、交わりを持つことの大切さを表現しています。この挨拶が無い教会では、今自分が誰と一緒に礼拝をしているのかが、わからないのです。これではなかなか礼拝共同体にはなることができません。私たちが誰と一緒に礼拝をしているのかを知る、そして誰が今日いないのかを知るということが平和の挨拶の大事な役割です。礼拝の中で挨拶をする大切さはそこにあります。
そしてこの挨拶が苦手な人も必ずいます。苦手な方への配慮も具体的に必要です。コロナウイルスの事も踏まえ、人と時にあわせて考えてゆく必要があるでしょう。
この挨拶はなぜ「平和の」挨拶なのでしょうか。それは私たちお互いの関係が平和のうちにあるということを確認するための挨拶だからです。そして私たちにとっての平和、それは神様が共にいるということです。平和の挨拶とは、私たちの互いの平和の関係の確認、そして神様が共にいるという平和の確認をお互いにしあう事なのです。
今日の聖書を見てゆきましょう。イエス様もこの平和の挨拶をなさったお方です。弟子たちはイエス様がとらえられた時、一目散に逃げだし、裏切り、見棄てました。そして裏切ってしまった自分への自己嫌悪、罪悪感は彼らを家に閉じこもらせたのです。弟子たちは自分の心に鍵をかけて閉ざし、集まっていても心はバラバラでした。そのような孤独と不安のまん中にイエス様が現われます。そしてイエス様は「あなた方に平和があるように」と平和の挨拶をするのです。ここでイエス様はヘブライ語で「シャローム」と言っていたはずです。
シャロームの平和、それは神様がともにいて、安心している状態です。そして私だけの安心ではなくて、ともにいる人々すべてに安心がある状態、それがシャロームです。つまりみんなが神様と共にいる平和とも言えるでしょう。それがイエス様の再会の第一声だったのです。
それは自分を裏切った相手に対しての恨みではなく、和解と平和の挨拶でした。そして神様が共にいる、それを実感させる挨拶だったのです。
私たちも礼拝の中で平和の挨拶を交わします。平和の挨拶は閉じこもっていないで、自分の心のカギを開けて、どうぞ親しみを込めて挨拶をしてください。お互いが平和を感じる事ができる挨拶を探してゆきましょう。そして再会できる時を待ち望んでいます。その時また、互いに信頼と、神様が共にいることを確認し合う平和の挨拶を交わしましょう。
私たちは子どもを大切にする教会を目指しています。そして子どもと一緒に礼拝することを大切にしています。今日の聖書個所は私たちの年間主題聖句です。子どもを大切にすることを表す聖句です。
神様はイエス様を通じて、ご自身の事、神様の事を教えて下さいました。だから私たちはそのイエス様を通じて神様に祈ります。神様を受け入れるということも同じです。神様を受け入れ、信仰を持つという事は、イエス様を受け入れるということです。聖書に書いてあるイエス・キリストの歩み方を受け入れて、自分の生き方にする事が神様を受け入れるということです。
しかし今日の個所、イエス様は「子どもを受け入れるなら私を受け入れたことになる」と言います。神様=イエス様、イエス様=こどもという事です。神様はイエス様を受け入れるようにと言い、そしてイエス様は子どもを受け入れるように言うのです。
かわいい子どもを受け入れることは命令をされなくても、案外簡単なことでしょう。しかし、私たちが受け入れる子どもとは、単にかわいいだけの存在だけではありません。子どもとは無力で、弱くて、保護が必要で、ときにはわがままな存在です。私たちはこのような、弱さと欠けを持った子どもを受け入れることを通じて、イエス様に出会い、神様に出会うというのです。
弱さや欠け、実はそれを持っているのは子どもに限らないものです。力をなくし、弱くなっている人たちは大人でも多くいます。イエス様はそのような大人も優しく迎え入れる生き方をされました。弱く、小さい者を受け止め大切にしてゆく、その生き方を実践してゆくことが、イエス様を、神様を迎え入れることになるのです。そしてイエス様ご自身も弱いお方であり、ご自分の弱さを受け入れられたお方です。その一番が十字架です。
私たちは今、礼拝ということを考えています。私たちが礼拝で受け入れるのは、小さく無力で、弱い者、子どもです。そしてそれと同じくらい弱い自分やお互いです。そしてこの礼拝の中心にいるのも弱き者、弱くされた十字架のイエス・キリストです。その弱さを受け入れていくことが、十字架を受け入れてゆくことが、神様を受け入れてゆくことになるのです。
今日の聖書の個所によれば、礼拝の中に弱さをもった者、自分や他者、子どもを受け入れる事が、私たちが神様を受け入れることになります。だからこそ礼拝の中には弱いもの、無力な者が必要です。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人が礼拝には必要です。私たちの無力さが礼拝の中には必要なのです。それを受け入れてゆくことが、キリストを受け入れる事になります。そこに弱い者、弱い私がいることが大事なのです。
礼拝は弱い者の集まりです。もっと弱い者が集まる礼拝としてゆきましょう。弱い人、傷ついた人、重荷を負った人を歓迎します。そして一緒に神様に出会う礼拝をしてゆきましょう。
私たちは今礼拝とは何かを12回シリーズで考えています。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招き、礼拝は共同体作りとみてきました。今日は「礼拝は歌う」です。教会にはたくさんの芸術があります。この芸術たちは教会にとってそれぞれ意味があります。中でも音楽は、教会がもっとも大切にしている芸術のひとつです。
私たちはなぜ礼拝で歌を歌うのでしょうか。当初のバプテストは、礼拝で賛美を歌うかどうか熱心に議論しました。そこで指摘されるとおり、歌は危険です。歌っているうちに、いつのまにか賛美歌の対象が神様であることを忘れてしまうことが起こるからです。時には間違った目的に利用されます。
それでも私たちが礼拝の中で歌う理由の一つは、歌うことが私たちの共同体をよく現わすからです。私たちは声をお互いに合わせています。そうやってお互いに合わせることでひとつの美しいメロディーになるのです。歌を歌うことは、一つの共同体になることを示すのです。
そしてもちろんその歌は神様の素晴らしさを現わしている歌です。私たちはお互いを意識しながら、神様を素晴らしいと歌っているのです。私たちは神を讃えるために、互いの声を聞き、声を合わせ、奏楽に合わせ、神に歌うのです。それが歌う目的です。お互いの、左右の矢印と、下から上への矢印を同時に表現することができるのが賛美歌なのです。
今日の聖書の個所を見ましょう。聖書にはたくさんの芸術、特に音楽があり、いろいろな楽器が登場します。マリアムは踊りと楽器と歌で神様の素晴らしさを表現したのです。ミリアムはみんなに合わせて歌いました。そしてみんなはミリアムに合わせて歌いました。神の民のすべての人々が声を合わせて、体を動かして、神様の素晴らしさを現わしたのです。彼女たちはその踊り、叩き、歌をしっかりと神様に向けて歌いました。それは神様の素晴らしさを表し、私たちの共同体を表現していたのです。
そしてここで歌われているのは私たちの決心ではありません。神の業そのものがここで歌われているのです。決心よりもまず神様の素晴らしさを表わす、それが私たちの賛美なのです。
私たちは今集まって共に歌うことが出来ません。苦しい時にいます。でもいつか必ずまた賛美を歌うことができるようになります。その時、神様に精一杯の感謝の歌を捧げましょう。苦しい時に神様へ祈るだけではなく、乗り越える事が出来た後、、神様への感謝をまた歌で表したいのです。
私たちは一緒に新しい歌を歌いましょう。新しい歌それは、新曲という意味ではありません。それは私たちが歌う、ストレス発散の歌ではなく、それとはまったく違う新しい歌です。新しい気持ち、新しい感謝をもって歌を歌いましょう。その歌は互いの声を聞きながら、互いの命を感じながら歌いましょう。そして、なにより神様にむけて、賛美をしましょう。
私たちは今、「礼拝とは何か」というテーマを考えています。礼拝は一番大事、礼拝は順序が大事、礼拝は招きとみてきました。今日は「礼拝は共同体作り」というテーマです。礼拝は共同体をつくる力を持っています。みんなが礼拝をするために集められ、そこで私たちは一つの教会になります。私たちは礼拝共同体です。私たちを一番結び付けているのは礼拝なのです。
今日は礼拝の中の「報告」について考えます。報告は礼拝の一部です。忘れがちですが、礼拝プログラムの中に組み込まれている礼拝の一部です。
報告は礼拝と分けるべきでしょうか。それとも今までどおり礼拝の中で置くべきでしょうか。どのような礼拝にするかは私たちの教会の選びです。私は礼拝の中に報告があることが大事だと思います。その報告は実は私たちをひとつの共同体へと変える力を持っているからです。
多くの場合、神様は教会の仲間や友人を通じて、私たちに変化を起こそうとなさいます。だから私たちはそれぞれがみ言葉を聞いていればいいというわけではないのです。自分以外の他者との関わりの中で、この礼拝共同体の中で、信仰に導かれていくのです。このような共同体になってゆくために、教会には、礼拝には「報告」が必要だと思うのです。
今日の聖書個所を見てゆきましょう。今日の個所は報告によって人々が新しい共同体へと変えられてゆく様が記されています。報告によって教会は大きな喜びに満たされます。自分たちの民族以外にも福音が広がっていったという報告に、人々は励まされたのです。
しかし同時にこの報告は教会の在り方、共同体の在り方を問うものになりました。それまでの伝統や割礼をどこまで新しく加わった人々に求めるのか議論となったのです。
ある人はユダヤ教徒の伝統を守ることが、神様の恵みに応答したことになると考え、イエス・キリストを信じるならば、割礼や様々な律法も実践すべきだと主張します。またある人は神様への応答の仕方はユダヤ教の律法の実践だけではないはずじゃないか。それぞれに、それぞれの民族に神様への応答や感謝の方法があるはずだと主張します。
私たちはこの中間、あるいは律法を忠実には実行しない側にいると言えるでしょう。十戒を大事にしつつも、すべての律法を守るわけではないからです。それぞれに神様への応答、向き合い方があると考えるからです。
いずれにしても今日見たいのは、私たちがどのような共同体になってゆくのか、大切な問いが報告から生まれたということです。そして報告によってこの共同体は境界線をなくしてゆくことを選んだのです。
報告によって、礼拝共同体の在り方は大きく問われました。私たちも同じでしょう。礼拝の報告を通じ、どのように私たちの共同体が歩んでゆくべきかを問われ選ぶのです。
今、私たちは「礼拝とは何か」をそれぞれの自宅で考えさせられています。ここまで礼拝は一番大事であること、礼拝は順序が大事だということを見てきました。特に先週は礼拝の中にある5つの要素と順序、招き、交わり、み言葉、感謝、派遣を見ました。今日からは私たちの礼拝のプログラムのひとつずつを考えてゆきます。その一回目は「招詞」です。
集えなくなって気づくのは、「私が頑張って礼拝に行くということよりも、神様が礼拝に招いてくださっていた」ということです。招きは、たとえ礼拝に参加できなくても変わらないものです。私たちにどのような事情や病があっても、たとえ自分が誰かわからなくなっても、たとえどんなに短い生涯だとしても、私たちは等しく神様の招きを受けている者です。
礼拝とはそのように一方的な神様の招きです。神様がおいでと私たちに語り掛けておられることが、礼拝で大事なことです。神様の愛と招きはすべての人に等しく注がれているのです。礼拝はただ神の招きによって持たれるものです。私たちは礼拝を始める時、まずその招きを聞くということから始めます。だから礼拝の一番最初には招詞、招きの言葉があります。今日の聖書も、大切な事は神様の招きであるということが語られています。
ペテロは一晩中あらゆる方法を試しても一匹の魚も捕れません。彼の働きは実を結ばなかったのです。自分達の力で取り組んだこの漁、自分達の力で取り組んだ働きはうまくいかなかったのです。人間の決心による集まり中では、誰も彼がイエス・キリストだとわからないのです。
しかしだからこそ、そこでイエス・キリストの招きが起こります。その招きは舟の右側に網を投げて見なさいという招きです。人間の決断ではなく、イエス・キリストの命令です。人間のあらゆる努力にまさる、神様の招きと恵みがあるのです。それが私たちの礼拝です。
網の中の153匹、それは神様が、すべての人々を招いていることを示しています。全世界のあらゆる命が、神様の招きを受けているという事です。弟子たちがイエス様に気づいたのは、その目で見た時ではありません。魚がたくさん取れた時、全世界のあらゆる命が神様に招かれているという事を知った時「主だ」と分かったのです。礼拝も同じです。あらゆる人間が神様から招かれているということを知る時、私たちは神様を知る者となるのです。
弟子たちがこの方がイエス様だと知ったのは、神様による招きの豊かさを知った時、そしてイエス様と食事をとった時です。本当にこれは私たちの礼拝そのものです。私たちも神さまを知るのは、あらゆる人が招かれた礼拝にあずかること、そしてイエス様との食事・主の晩餐によってです。
私たちの努力をすべて超えた、神様の招き、そしてイエスの食卓において、私たちはイエス様の復活を知る者となるのです。私たちの礼拝もそのように持ちましょう。私たちの礼拝を招詞・招きのことばから始めましょう。
今日は「礼拝とは○○」シリーズの2回目です。前回は「礼拝は一番大事」というテーマでした。それが大事なのは礼拝が神様の招きだからです。私たちはこの招きである礼拝を私の、教会の一番にしてゆきたいのです。
今日は礼拝の順序について共に考えます。礼拝では同じことをしても、順序の違いで意味は大きく変わります。私たちの礼拝は大きく分けて5つに分けられます。招き、交わり、み言葉、感謝、派遣の5つです。まず礼拝は、招詞から始まり、前半に挨拶や交読文など、お互いを感じるプログラムがあります。そして次にみ言葉、聖書朗読と宣教があります。そして感謝としての献金、祝祷による派遣が行われます。矢印を付けると分かりやすいです。招きは神様から人間へ上から下の矢印です。交わりは左右の矢印、み言葉は上から下、感謝は下から上、派遣は上から下です。礼拝はこのように、上下左右の運動が交互に折り重なりながら進みます。私たちはこのようにして「神様との対話」として礼拝の順序を持っています。
今日の聖書個所を見てゆきましょう。この個所のイエス様とペテロの対話が、実は私たちの礼拝とまったく同じ順序であることに気づきます。
イエス様はまず「私を愛しているか?」と問います。この問いは同時に招きです。ペテロはイエス様に問いかけられ、対話と告白に招かれています。神様の招き、それが私たちの礼拝の始まりなのです。
次に交わりです。羊飼いの仕事とはばらばらだった羊同士を結び付け、一つの群れを作ることです。私たちは交わりによって人との結びつきを作るように、示されるのです。だから私たちは礼拝で挨拶を交わすのです。
3つ目はみ言葉です。み言葉とは傷つき、失敗し、逃げ出す私たちに向けられた、希望の言葉です。礼拝はこのみ言葉が中心です。そしてみ言葉によって、もう一度神と人を愛し、信頼し、歩む力を頂くのです。礼拝のみ言葉にはそのような力があるのです。これが礼拝の中心です。
4つ目は感謝です。ペテロは感謝の応答をしています。イエス様に導かれ、み言葉に励まされた者は、イエス様に委ね、感謝する者になってゆくのです。
5つ目は派遣です。私たちの人生は思う様に行きません。神様との出会いである礼拝の後に、私たちはそのような世に派遣されます。でもその中でイエス様は「私に従いなさい」というのです。これが派遣です。
70年間私たちが大事に守ってきた順序があります。それにもう一度意味をしっかりと見い出したいのです。もっと新鮮に、日々新しく、この礼拝を頂きたいのです。そして、もっとこうしたら神様との対話になるのではないか、そのような部分が私たちの礼拝にはまだまだ残されているでしょう。私たちは礼拝の中にある招き、交わり、み言葉、感謝、派遣、その意味をもう一度取り戻したいのです。いまそれぞれの場所からする礼拝、毎週の礼拝を、大切にしてゆきしましょう。
今日から「礼拝は○○」という12回シリーズで、4月と6月7月は礼拝を考える「礼拝再考」の時をいただこうと思います。教会が一番大事にしていることは礼拝です。礼拝をやめてしまった教会というのは存在しません。なぜなら礼拝をやめたとき、教会は教会でなくなってしまうからです。
教会がいろいろなことにチャレンジする時、礼拝以外の事柄に一番の力を注ぎ始めてしまうことに注意をします。たとえば子供を大切にしようと言っている教会。子どもを歓迎すると言っても、子供が礼拝にとても参加しづらいという教会がたくさんあります。「子供とどう礼拝するか」まずそれを第一の事柄として悩みたい、そう思うのです。それが教会が礼拝を中心にする、一人ひとりが礼拝を一番大切にするという事ではないでしょうか。その礼拝とは何か、今日の聖書個所に聞いてゆきましょう。
神様の礼拝に招かれるのは、神の憐れみによってです。人間の憐れみや権威によって、礼拝に招かれるのではありません。教会の牧師の人柄や、教会の人間関係によって礼拝に招かれているのではありません。
礼拝に集うということ、それは私たち人間の応答といえるでしょう。神の招きに私がたまたま応えることができた、それが礼拝に集うということです。神様が招いているからこそ、教会は礼拝がなによりも大事なのです。そして今、私たちは神様の招きがそれぞれの場所にある、そう信じ、今、それぞれの場所で礼拝を捧げているのです。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる 生ける、いけにえとして献げなさい」。ここには自分の体とあります。私たちの「体」とは、この地上に生き、汗をかいて働き、病気になり、不安になります。体を捧げなさいという時、それは不完全なままで献げる、礼拝をするということでしょう。だから聖書は、「聖なる体に“なって”献げなさい」とは言いません。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」
ここでパウロは「生けるいけにえ」と言います。この「生けるいけにえ」は生き生きとしたまま捧げられるということです。私たちの生きている人生、生きたまま捧げる、生きる喜びをささげようということです。ありのままで、傷ついたままで礼拝においで。それで神様は喜んでくださるよ。そして、私たち人生を神様に献げようという意味です。
「これこそ、あなたがたがなすべき礼拝です」そう、これこそ私たちのなすべき礼拝です。礼拝とは神様からの招きです。そして私たちは今の体のままで、生きて、喜びの応答する、それが礼拝です。
私たちはこの礼拝を中心にしましょう。そのままの姿で、その体で招かれ、そのままで聖とされるこの礼拝を一番大切にしましょう。礼拝は一番大事なのです。これからしばらく礼拝について共に考え、また改めてこの礼拝を大切にするときいただいてゆきましょう。
イースターおめでとうございます。今日もそれぞれの家から、それぞれの場所から共に礼拝をしましょう。今、自宅にいるということが大切です。とても寂しく、難しく、もどかしいことですが。しかし「自宅にいるという愛」「外出自粛の愛」を私たちは示してゆきたいと思うのです。病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、「愛」を貫いてゆきたいのです。
苦しみの中でも神様に、なんとか希望に目を向けてゆきましょう。一日中テレビでは不安と死者の数が語られます。でも私たちはせめてこの礼拝の1時間だけは希望を持ちたいのです。神様は希望を与えて下さるお方です。今、不安と死から振り返って、希望に目を向けてゆきたいのです。今日の聖書の個所を一緒に読みましょう。
マリアが墓に向かった動機、それはイエス様の遺体に会うことでした。遺体に触れてイエス様の死を確認するために向かったのです。しかし遺体は無くなっていました。それは彼女の深い悲しみです。しかし同時に私はマリアがイエス様の死ばかりに目を奪われている姿も見つけます。イエスの遺体への執着さえ見る事ができます。イエス様が現れ「なぜ泣いているのか」聞いても、マリアはやはり遺体にこだわっています。彼女は死ばかりを探します。
死を受け入れる事は必要なことです。しかし、そればかりを見ていてはいけません。私たちには希望があるはずです。その希望に目を向けて歩みだしたいのです。そんな時、イエス様が現れ名前を呼んでくださいます。イエス様はその死と絶望の全く正反対から、語り掛けて下さるお方です。それは命と希望と喜びの方角です。私たちが見る、死と絶望とはまたく違う場所からイエス様は私たちに語り掛けておられるのです。マリアはそれに振り向きました。これまで探していた、確かめようとしていた死と絶望。そのことから向きを変え、方向転換をしたのです。今まで探していた方向から、まったく見ていなかった希望に心の向きが変わったのです。
今日、マリアの物語を追ってきました。マリアとはいまの私たちです。私たちはマリアと同じです。今、さまざま落胆と悲しみの中にあります。死があります。それは嫌でも目に飛び込み、向い合せられ、死と、不安が渦巻いています。しかし、私たちが探しているのは死と絶望ではありません。たとえ今はその中にあったとしても、必ず悲しみでは終わらないのです。
イエス様からの希望、死から復活するほどの希望が私たちにはあります。いま私たちは悲しみと落胆に目を注ぎ探すのではなく、振り返って、そう振り返って、希望を探したいのです。イエス様は今、私たちの名前を後ろから呼びかけ、方向転換させ、招いてくださるお方です。そしてこの死は悲しみでは終わらない事を語り掛けておられるお方です。その先に必ず希望が続いていると語り掛けておられます。私たちもその希望を見てゆきたい。私たちもそれを告げ知らせる、証しする者となるそのように招かれているのです。
教会は4月中はそれぞれの自宅で礼拝を献げることとしました。週報と宣教原稿を郵送し、インターネットでも配信をします。互いの顔を見ることができませんが、今日も共に神様の恵みを頂きましょう。ある方は「こんな時期だし、礼拝に行くのは止めた方がいい」と言われました。私たちは葛藤しています。こんな時期、きっぱりと諦めればいいのに集うかどうかについて葛藤するのです。
ところで私たちはなぜ今まで礼拝に集っていたのでしょうか。それはまず神様が私たちを呼び集め、呼んでくださっているからです。でもこのことは周囲にどう説明したらよいでしょうか。「神様が呼んでいるから、私は礼拝に行きます」答えたら、どんな顔をされるでしょうか。でも私たちにはそれ以上の説明のしようがありません。「なぜ礼拝に参加するのか?」「それは神の招きだから」という家族との会話はかみ合いません。しかし私たちは、かみ合わないけれども、神の招きを証しすることしかできないのです。もちろん教会に向かう時だけでなく、教会の中でもそうです。かみ合わない会話があります。でも神様を証しし続ける、私たちはそのように他者と向き合ってゆくのです。それは今日の聖書の個所からも学ぶことです。
イエス様とピラトの会話ははまったくかみ合っていません。イエス様はピラトが聞きたい有罪か無罪かについて話そうとしません。イエス様はひたすら神の国について答えるのです。イエス様とピラトの会話がすれ違う原因は、イエス様が「世に属さない」からです。世に属さないとは、イエス様の教えと存在はこの世を起源にもつものではないとうことです。まったく違う二人。交わらない二人。でもそこには対話と証しが生まれます。全くすれ違うけれども、たしかにそこには対話と証しがあるのです。まったく関係のないはずのものが、イエスの十字架という出来事によって、対話と証しを始めます。それは「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった(ヨハネ1章5節)」とある通りです。
真理とは隠れていないものという意味です。表面を飾り付けたり、うそをついたりしないことです。ごまかさないで、うやむやにしないで言葉を発することです。イエス様は神様のことをごまかさないために、それを証しするために生まれ、この地上に来られた、そして十字架にかかられたお方です。
私たちは神様の導きによって、礼拝に招かれています。私たちはそれを隠さずに、うやむやにせずに、証しし続けたいのです。そこでは必ず話がすれ違うはずです。かみ合うはずがないのです。しかし、それでも証しするために来られたイエス、そのイエスに従い、証しし続けてゆきたいのです。
今、私たちは、それぞれの場所で礼拝することを招かれています。そしてそれぞれの場所で証しし続けることを招かれています。今日それぞれの場所で「礼拝やってます」そう証ししてゆきましょう。